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基本情報
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埼玉縣小見村
眞觀寺 新義眞言宗長野村長久寺末慈雲山福聚院ト號ス開山瀧憲鏡阿闍梨仁冶三年八月三日化ス慶長九年寺領十石ヲ賜フ本尊正觀音ヲ安置ス
觀音堂 正觀音ヲ安ス木ノ立像三尺五寸鳥佛師ノ作ト云傳フ脇士ニ不動毘沙門ノ二像ヲ置此堂ノ後ノ方小高キ所ニ八尺四方ノ岩窟アリ寬永年中ソコヨリ開山ノ碑ヲ掘出セシトテ今モ存セリ靑キ板碑ニテ前面ニ金剛□子瀧憲鏡阿闍梨□□菩提□□□仁治三年八月彼岸第三番ト彫レリ
籠堂 釋迦堂 辨天社 仁王門
境内碑
眞觀密寺碑 眞言宗智山派管長倉持秀峯題額
關東七名城の一つとして〇城の聞え高き忍城の東現然崎の伽藍を慈雲山眞觀寺となす
野畦萬里を距てて高樹山嶺を仰ぎ續らすに上毛三山秩父淺間日光の連峯を以てし遙に筑波の翠嶽を望み○江〇た近くに流る蒼秀なる山泱泱なる水正に北武の絕景と謂ふべし
緣起は草創を止利佛師竝びに將軍田村麻呂に關りあることを傳へ文書は眞言宗智山派長久寺末中興開山を瀧憲鏡阿闍梨と記す 境內に現存する仁治三年の板碑はこれを立證して謬らず
本尊に聖觀音坐像を更に〇宇を建てて正觀音立像を安置し共に法燈久遠に輝きて今世に至れり 實に觀音菩薩廣〇利益の靈場にして密敎弘道の基調をなし衆生の歸依○○なるものあり
就中立像はその造顯藤原時代に係り慈悲圓滿の相好は流麗なる衣〇と相俟ち當時の典型を示現優美溫秀の究竟と謂ふべく早く縣文化財の指定を受けたり 吾妻鏡所載の武藏武士麻績氏もこの地の住人なれば○○にこの尊に拜跪せしならん
寺後の地の古墳は既に令名轟き同時代後期に屬する前方後圓墳の巨大なるもの石室の構成特異考古學上貴重の故を以て夙に國より史跡に指定せられ保存に萬全を期せり
詢に眞觀寺は古今の名刹鄕土の矜持たると同時に邦家の至寶たり
今茲長久寺檀徒總代關田英一氏現住喜繼種と胥謀り自ら淨財を喜捨し當寺の由來を石に勒して後昆に傳へんと志し余にその文を撰せしむ余恐懼これを承け薰沐稽首漸くにして成る 冀くは朝睴夕陰にこの精舍に合掌する人士の碑前に立つこと須臾寺史の梗槪を閱されんことを
昭和三十五年歲次庚子八月九日
埼玉縣文化財專門調査委員 山口平八撰書
燈籠 寛政二庚戌年(1790)
境内掲示板
国指定史跡
小見真観寺古墳
昭和六年三月三十日指定
この古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で、星川の右岸の低台地上に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長百十二メートルである。埋葬施設は後円部と鞍部付近に緑泥片岩の一枚石を組み合わせた二ヶ所の横穴式石室がある。後円部の石室は寛永十一年(一六四三)に発見され、前・後室よりなっている。
鞍部の石室は、後室のみが現存するが、前室については明らかではない。この石室は明治十三年に発掘調査され、衡角付冑、桂甲小札、鉄鏃、金環、頭稚太刀、圭頭太刀、刀子、蓋付有脚銅鋺等の副葬品が出土している。出土品は、東京国立博物館に収蔵・展示されている。
これらの副葬品から、この古墳は七世紀前半に築造されたと考えられるが、鞍部石室はやや遅れて造られた可能性がある。
前方後円墳としては最も新しいものであり、埼玉古墳群に後続する首長墓として重要である。
平成二年三月
埼玉県教育委員会
行田市教育委員会

【 最終 更新日時】2023/04/02 14:23:40