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基本情報
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住所 |
埼玉県入間郡越生町大字堂山287 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR八高線越生 徒歩36分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0492922439 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
真言宗智山派 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
「最勝寺縁起」
当山は建久三年(一一九三年)源頼朝公が則使大名であった家来の児玉雲太夫に命じて創建し領地を与え祈願所とした。第一世住職は高僧頼栄和上で佛法興隆に尽くし、その後天文年間に戦禍にあい、堂搭伽藍が灰となった。しかし現存の表門と大御堂は火災を免れて、四天王尊、持国天、増長天、広目天、多聞天が祭られ鎮護国家の道場として栄えたと伝わる。
大御堂の名称は当時将軍直創のお堂のことを言ったのである。又、表門の正面見込みの龍の彫刻は左甚五郎の作と言われ浄麗荘厳を極めたといわれ、後に第十六世登観和上が伽藍を再興(弘治二年 一五五六年)したが、明治四十一年四月二十一日に又々火災に遭い、本堂、庫裏等焦土と化したが大正十二年中興開山第二十八世隆全和上が伽藍その他を再興し現存に至っている。
本尊は十一面観世音で修羅界(争いのある世の中)を済度(救う)する佛様である。又、弁慶の引き鐘(現存西国三井寺)の元存の寺とも伝承され、昭和五十一年六月に当山第二十九世隆聖並び壇信徒各位の協力により往時をしのび古来より伝承される地名入り童歌を梵鐘に刻み鐘楼及び梵鐘を再興し夕べの鐘の音を告げている。
境内掲示板
最勝寺 越生町堂山
最勝寺は建久四年(一一九三)、源頼朝が、崇敬していた慈光寺(ときがわ町)参詣路の要所に位置する当地に、家臣の児玉雲太夫に命じて建立させたと伝えられている。最勝寺東方の字堀之内に「児玉雲太夫の墓」と呼ばれている五輪塔があり、塔下からは中世常滑焼の蔵骨器が見つかっている。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「青龍山と号す、新義真言宗、今市村法恩寺の末山なり、往古は天台宗にて西照寺と書きたるよし」と、かつて堀之内にあった大御堂の西方に当たるため西照寺と称し、東方には東福寺という寺があったことが記されている。堂山の地名の起こりとされる大御堂は、現在は最勝寺の境内にあり、平安仏の木造釈迦如来像と四天王像、鎌倉仏の木造阿弥陀如来像が安置されている。
元禄十三年(一七〇〇)建立の山門のたもとにある、大日如来と六地蔵が彫られた石仏は、近くの辻から移設されたもので、「右志かう/左あまてら」の文字が、慈光寺と子の権現(飯能市の天龍寺=通称あまてら)の方角を示している。
また、朝夕の時を告げている梵鐘は昭和五十一年の鋳造で、「どこ堂山の最勝寺」で始まる、一円の地名を織り込んだ、古くから伝わる俚謡が刻まれている。
令和二年四月三十日
越生町教育委員会
新編武藏風土記稿
入間郡堂山村
最勝寺 靑龍山ト號ス 新義眞言宗今市村法恩寺ノ末山ナリ 往古ハ天臺宗ニテ西照寺ト書タルヨシ 其故ハ下ニ出セル大御堂ト云モノ 其頃小名堀內ニアリテ ソコヨリ西方ニ當ルヲ以西照寺ト云ヒ 夫ヨリ東ニアタル寺ヲ東福寺ト稱ス 則今ノ東福寺是ナリ 西照ヲ最勝ト改メシ所以ハシラス 又或ハ當寺ヲ指テ上ノ寺ト呼ヒ 東福寺ヲ下ノ寺ト唱ヘシト云 客殿ノ軒ニ掛シ鐘ニ元祿元年法恩寺主溫カ銘アリ 其略ニ云 越生鄕堂山大御堂最勝寺者能仁寂默寶殿瑜伽上乘道場也曩時藉錄天文年中罹鬱攸之變已爲烏有矣唯傳言開基者建久癸丑年右大將賴朝公來日于茲有感神異創建大伽藍則使兒玉氏雲太夫奉行之寄附瞍田若干云云弘治年中法印賴榮稟承法脈於法恩寺之廣慶阿闍梨其後又賴圓上人相續重受慶秀和尙 于今傳燈熾然也云云 開基ノアラマシハシルヘシ マタ法恩寺ノ年譜錄ニヨリテモ古ク創立アリシコト知ラル 當時ハ大御堂ノ別當寺ナリシニヤ 既ニ慶安二年タマハリシ御朱印ノ文ニモ釋迦堂領七石八斗トシルサレシニテモシラル コノ釋迦ハスナハチ大御堂ニ安置スル本尊ナリ 本尊ハ十一面觀音ノ銅像ナリ
寺寶 大般若經四箱 コノ經ハムカシ和田村ノ春日社ニアリシヲ故アリテ當寺ニウツセリトイフ 經文ノ奧書ヲヨヒ箱ノ圖ヲ上ニ記ス
建長二年六月廿八日
康安二年
貞治三年
永和元年
至德三年卯月日比企郡平澤寺住僧金剛佛子榮德
應永三年赤尾阿彌陀海禪
應永廿四年五月十九日武州入西郡吾那越生鄕新熊野常住執筆良觀
武藏國吾那小山一乘坊新熊野大般若難惡筆如形言寫良觀生年廿三歲應永廿四年六月廿日
應永廿七年閏正月十六日右衞門尉師兼書之
嘉吉三年武州秩父郡菅沼鄕麻布村大慶庵書之
武州比企郡釜形鄕八幡宮常住於平澤寺圓仙房書
延德三年十二月廿八日鹿下幸傳書
福德第二年
コレ逸年號ニシテ年代シレサレハ姑ク此ニ出ス 此外經文ノ奧書ニ武州比企郡釜形ノ鄕 八幡宮常住於平澤寺圓仙房書ト而已記セルアリ 又足利庄般若禪寺常住住持勸緣比丘道班トヱリタル印ヲ押セル 板本ノ經モアリト云
大御堂 境內ニ入テ左ノ方ニアリ 三閒四方中山中納言愛親卿ノ筆ニテ大御堂ノ三字ヲ扁ス 本尊釋迦ハ楠ヲモテ彫刻セシ長二尺許ナル坐像ナリ 側ニ同木ニテ作レル彌陀及四天王ノ像アリ 此彌陀ノ臺座ノ裏ニ 奉再興新御堂阿彌陀本尊云云延德四年□子卯月日本願權少僧都□□定道トアリ 其圖ハ上ニ出セリ 此堂ハ前ノ鐘銘ニイヘル兒玉雲太夫カ奉行シテ建立セシ處ナリ 其地ハ村ノ東方ナル堀ノ內ニアリシニ 後戰爭ノ事アリテ久ク破壞シタリシヲ 再興ノ時コヽニ引移セシト云 現ニ文安三年吾那左衞門尉建光ノ寄附狀ニモ 吾那堀之內釋迦堂トアリ 其文ニ
武藏國入西郡越生鄕恆弘名之內田代村菊萬在家土貢八百文同所中島在家田畠土貢八百文 合壹貫六百文所依爲吾那堀之內釋迦堂爲息庵主建立爲道乘菩提釋迦江奉永代寄進所實也 此上者於子孫中於致異亂妨輩者器光跡不於可知行候仍爲後證永代之寄進狀如件
文安三年三月九日 左衞門尉憲光花押
稻荷社 |
神社・お寺情報 |
越生七福神・福禄寿
入比坂東三十三ヶ所観音霊場27番
境内掲示板
医聖 田代三喜
田代三喜は、寛正六年(一四六五)四月八日、現在の越生町大字古池田代に生まれた。祖先は、伊豆の田代信綱といわれ、その子孫は代々医術を業とし、父兼綱の代になり武蔵に移った。
十五歳の時、臨済宗の寺に入って僧となり学問を修め、長享元年(一四八七)二十三歳で明国に渡り、李・朱医学など、当時の進んだ医学を修得した。その間十二年、その頃すでに日本から明国に渡り、名医として知られていた月湖について学んだ。明応七年(一四九八)多くの医学書を携えて帰国した。
初め鎌倉の円覚寺内江春庵に居を定めたが後に足利成氏(古河公方)の招きにより、永正六年(一五〇九)古河に移り成氏の主治医となった。古河にいること数年にして、武蔵に帰り、以来関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。
享禄四年(一五三一)二十五歳の曲直瀬道三は、三喜に会って医学を志し、その門下に入った。 三喜は、道三をよき後継者とし一切を傾けて指導し、死期近い病床でなお口述を続けた。道三は感動し、硯に落ちる涙で墨をすって記録したという「涙墨紙」が残っている。
本邦後世派医学の開祖であり、医聖と仰がれていたが、天文十三年(一五四四)四月十五日に病を得て没した。年七十九。
梵鐘
何処堂山最勝寺
鐘を津久根の成瀬村
大谷へ舞く高野倉
熊井熊井と思えども
大豆戸に小用がある故に
赤沼走りて北浅目
云々
古童べ歌より |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
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最終
更新者】thonglor17
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最終
更新日時】2025/06/15 06:37:19
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