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基本情報
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住所 |
埼玉県比企郡ときがわ町玉川4031 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR八高線明覚 徒歩17分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0493650595 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内碑
竜福寺梵鐘鋳造記念
竜福寺は曹洞宗、山号を玉壷山という。
昔藤原盛吉という者、当所の勝地なるを見て、熊野権現・弁財天等の四社をここに勧請し、一寺を建立し竜腹寺と名づけたという。その年暦等は明らかでないが、一説に天平年間ともいわれている。当時は上古大いに栄え、多くの僧が群衆し読誦昼夜絶えなかったという。
年移り智光禅人という者、全棟なる人の助力により寺を改築した。中世末、本寺竜穏寺十四世良賀を請じて開祖となし、寺号を竜福寺と改め現在に至った。
境内にあった鐘楼の鐘は、寛文十一年の鋳といわれ、その妙音は、殷々として字内にひびき、多くの檀徒にやすらぎを与えた。
昭和十六年太平洋戦争勃発、国内資材の欠乏に伴い、梵鐘は、兵器作製の材料として供出され、その姿を消した。
梵鐘を作ることは、当寺二十三世智嶽信由氏のかねてからの願いであり、また檀家の願いでもあった。昭和五十四年檀信徒相計り、おのおの浄財を寄進し、これを鋳造した。
この機会にこれを記念し、かつ、竜福寺並びに檀家のますますの隆昌を祈念し、この碑を建立した。
昭和五十四己未年八月吉祥
新編武藏風土記稿
比企郡玉川鄕
龍福寺 禪宗曹洞派入間郡龍ヶ谷村龍穩寺末 玉壺山ト號ス 本尊釋迦 傍ニ十六善神ノ像アリ 何レモ古物ト見ユ 寺記ヲ閱ルニ藤原盛吉ト云モノ 當所ノ勝地ナルヲ見テ 熊野權現辨財天等ノ四社ヲ爰ニ勸請シ 其後一寺ヲ建立シテ龍腹寺ト名ツク 是則當寺ノコトナリ 其年歷等詳ナラス 或ハ天平年中ノコトヽイヘト信スヘカラス ソレヨリ遙ノ星霜ヲ經テ漸ク衰微セシヲ本寺十四世ノ僧良賀中興ス 此時寺號ノ文字ヲ今ノ如ク改メタリ 良賀ハ慶長十九年正月二十八日寂ス 又古ヘ智光禪師當寺ニ住セシコトアリト云 此寺記ハ寶永二年當山ノ住僧邑堂ノ書セシ物ニテ モト佛像ノ中ヨリ出シ 舊記ニ據テ書セシトアレト 其舊記ハ失ヒシヤ今ハ傳ヘス 盛吉カコト總テ詳ナラス 村內ニ此人ノ居住セシト云壘蹟アリ 鐘樓 寬文十一年ニ鑄タル鐘ナリ
熊野社 秋葉社 辨財天社 此社ハモト寺ノ前ニ池アリテ其中ニ鎭座セシカ 後門內ニ移シテ池ハ埋タリ 神體運慶ノ作ト云 以上三社ハ當寺建立ヨリ先ニ勸請セシ四社ノ內ナリ 殘ル一社ハ廢セシト云
彌陀堂 本尊ハ行基菩薩ノ作長三尺六寸許 此堂ノ背後ニ古碑一基アリ 庚申四月十六日トノミ見エテ其餘ノ文字漫滅シテ讀ヘカラス 是ハ相模國大磯ノ遊女虎カ曾我十郞祐成ノ爲ニ建シ碑ナリト云 サレト其頃ノ物トモ見エス 恐ラクハ附會ノ說ナルヘシ |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
県指定有形文化財
木造 阿弥陀如来坐像
平成十三年三月十六日指定(埼玉県)
龍福寺阿弥陀堂に伝わる本尊仏で様式から鎌倉時代前半の十二世紀末~十三世紀初頭(約八〇〇年前)の製作と考えられます。像の高さは一〇八センチメートルで等身大よりやや大きく、カヤ材による頭部割はぎ胴部寄木造りとなっています。像内に残された記録により貞和三年(一三四七)をはじめ 三度以上の修理が行われていることが分かっています。
平成九年には大掛かりな解体修理が実施され鎌倉彫刻特有のたくましい造形表現を取り戻しました。
像內墨書修理銘
修理銘文
大旦那 沙弥妙賢
僧宗印禅師 平頼宗
平清胤 佛子 佛性房宋祐
十方旦那
貞和三年丁亥二月一五日
令和四年二月 ときがわ町教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/10/19 15:02:07
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