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基本情報
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住所 |
埼玉県比企郡吉見町大串2044 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
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御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0493541060 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
本山修験宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
毘沙門堂と大串次郎の墓
毘沙門堂は、大串山金蔵院といい修験の寺で、本尊は行基の作といわれる毘沙門天の立像である。
毘沙門天は、武勇の神であり、武将大串次郎重親はこれをあつく信仰し、この地に寺を建立したと伝えられる。
この寺は、もとは七堂伽藍が備わった立派な寺であったが、天文年中(一五四六年ごろ)北条、太田両氏の松山城争奪戦に遭って焼失してしまった。
現在のお堂は、後に建てられたものである。また、毘沙門堂の西方七十メートルの畑の中にある塔を宝篋印塔といい、高さ一、九メートルあり、九輪の上部は欠損しているが、他は完全で関東地方では整った美しさをもつ優秀な塔の一つである。
昭和五年に県指定史跡となっている。
この塔は、源平の昔、有名な宇治川の合戦の折、畠山重忠と先陣を争った大串次郎重親の墓と伝えられている。
平成十年三月
吉見町・埼玉県
新編武蔵風土記稿
橫見郡大串村
毘沙門堂
本山修驗松山町觀音寺ノ持本尊ハ行基ノ作長三尺許ノ立像ナリ相傳フ當寺ハ大串次郞重親創立トス毘沙門ハ則其守本尊ナリトソ當寺ハ七堂伽藍備リ別當ヲ大串山知足院隆福寺ト號セシカ天文年中松山戰爭ノ時兵火ニアヒ後今ノ如ク堂舍ヲ營ミ慶安元年堂領八石六斗ヲ附セラル村內字寺家通リ應生寺光樂寺通ナト唱ルハ皆隆福寺坊中ノ名殘ナリト云
大串次郞重親墓
堂ノ背後ニ在五輪ノ石塔ニシテ面ニ永和二年丙辰十二月日沙彌隆保ト彫ルコレ重親カ法謚ナリト云大串ハ武藏七黨ノ內橫山黨ニテ祖先ハ小野篁ノ後胤橫山大夫義高ノ苗裔由木六郞保經ノ二子ヲ大串次郞孝保ト號ス是大串ノ祖ニシテ其子大串次郞重保マタ重親ト號セシ由彼系譜ニ見ユ又東鑑文治五年八月十日錦戶太郞國衡討死ノ條ニ重忠門客大串次郞相逢國衡國衡所駕之馬者奧州第一駿馬號高楯黑也大肥滿國衡駕之每日必三箇度雖馳登平泉高山不降汗之馬也而國衡怖義盛之二箭驚重忠之大軍閣道路打入深田之閒雖如數度鞭馬敢不能上陸大串等於得理梟首大遮也云々ト見ユ此餘平家物語及ヒ源平盛衰記宇治川合戰ノ條ニ重忠ニ扶ケラレテ重親カ川ヲ渡セシコトヲ載タリ重親ハ畠山重忠カ烏帽子子ニシテ屢戰功モアリシトソサルヲ今此墓ニ永和二年トアレト重親ガ錦戶太郞國衡ヲ討シハ文治五年ニシテ其年代百八十餘年ヲ隔タリサレバ爰ニ記セル沙彌隆保ハ大串氏ノ人ニテ重親カ子孫ナトナルヲタマタマ著名タルニヨリテ重親カ墓トイヒナラハセシカ |
神社・お寺情報 |
水盤 文化九壬申歳十二月(18125)
境内掲示板
伝大串次郎重親塔(埼玉県指定史跡)
金蔵院の西方約七〇メートルの畑の中にある宝篋印塔は、平安時代末(約八〇〇年前)の源平の争乱で畠山重忠とともに活躍した大串次郎重親の墓という伝承があることから、伝大串次郎重親塔と呼ばれています。
この宝篋印塔の高さは一、九メートルで、「永和二年(一三七六年)沙弥隆保」の銘があり、昭和五年三月に史跡として埼玉県の指定を受けました。
二重式の宝篋印塔という珍しい形式に加え、造立から六〇〇年以上の年月が経過しているにもかかわらず保存状態は大変良好で、塔全体のバランスも非常によく整っています。全国的にもこのような状況で現存している宝篋印塔は珍しいため、昭和十三年には重要美術品としての指定を受けたことがあります。
金蔵院宝篋印塔(埼玉県指定史跡)
金蔵院山門の左側にあって「応安六年(一三七三年)」の銘があります。四隅に突起のある笠と、真四角の塔身が二つずつあることから二重式宝篋印塔と呼ばれますが、現在では笠の四隅にあった突起と欠損個所がみられます。伝大串次郎重親塔とともに昭和五年三月に史跡として埼玉県の指定を受けました。
宝篋印塔とは鎌急時代の中ころ(約七〇〇年前)から造られ始めた密教系の石造塔です。本来は塔の中に経文や仏舎利を納め礼拝供養を行うための供養塔でしたが、後の時代には、墓碑として造立する例も見られるようになりました。
金蔵院毘沙門堂は大串次郎の建立で本尊は行基の作と伝えられています。当時は七堂伽藍が並び立ち、現存する光楽寺・応性寺・寺家通り等の小字字はその名残りといわれています。
平成十二年三月 吉見町教育委員会
宝篋印塔側掲示板
県指定史跡金蔵院宝篋印塔二基
所在地 比企郡吉見町大字大串二二〇‐三先 二二四四‐一
宝篋印塔とは鎌倉時代中期に出現し、宝篋印陀羅尼経という経典を塔内に納め、礼拝供養を行なった石造塔である。金蔵院には山門の入口にある応安六年(一三七三)銘、御堂の西側にある永和二年(一三七六)銘の宝篋印塔がある。その構造は共に二重式という県内でも大変珍しいタイプであり埼玉県の指定となっている。かつてはこの永和二年銘の宝篋印塔を含む周辺一帯が広大な金蔵院の敷地であったと言われている。
永和二年銘の宝篋印塔は、「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれており、文化・文政年間に編纂された「新編武蔵風土記稿」(一八一〇~一八二六に編纂)には、その当時から地元の人々の間で大串次郎重親の墓であるという伝聞があったことが記されている。大串次郎とは畠山重忠の家臣で平安時代末~鎌倉時代初頭(十二世紀~十三世紀)に活躍した人物であり、宝篋印塔にある永和二年(一三七六)銘とは約百五十年もの開きがある。そうしたことから大串次郎の墓という言い伝えは、後世に創作されたものと考えられていた。
しかし、平成十一年に実施した宝篋印塔の保存修理・覆い屋設置工事で、永和二年銘の宝篋印塔の地下から、人骨が納められた十二世紀~十三世紀の中国産の白磁四耳壷、十二世紀後半の愛知県渥美産の大甕を出土し注目を集めた。出土した白磁四耳壷は欠損部分がない完成品で、高さ二十・九cm、最大幅十七・三cmである。壷の肩の周囲に四個の環耳が付いているため四耳壷と呼ぶ。大甕は高さ五十八・四cm、口径四十五・一cm、胴部最大幅六十七・九cm、底径十五・三cmを計る。胴部には大甕を成形した際の三段のタタキが、肩部にはランダムのタタキが認められる。白磁四耳壷の外容器として使用されていた。出土した人骨の性別は、頭蓋骨、四肢骨の発達状況から男性と思われる。年齢は頭蓋骨の縫合の癒合状態などから、壮年後半と推測される。また、出土した焼骨の総重量は七百五十gであるが、一般に成人男性一体が火葬され、完全に灰化した重量は約三kgと言われている。
現在、白磁四耳壷と渥美産大甕は県指定文化財となっており吉見町埋蔵文化財センターで保管されているが、出土した人骨は別の容器に納め、この塔の地下で眠っている。
平成三十年三月
吉見町教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/03/05 08:44:56
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