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参拝日:2023年3月27日 15:00
今回は法然上人三河25霊場とコラボ御朱印をいただきにお参りしました。
★★★★ 参拝日:2020年12月5日 00:00
駐車場有 直書き 御朱印を待つ間、自動放送でお寺の説明をしてくれます🤗
★★★★ 参拝日:2020年12月5日 00:00
★★★★★ 参拝日:2018年9月15日 00:00
今回は御朱印帳を購入しました❗
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※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 愛知県岡崎市鴫田町広元5-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 三河 |
アクセス | 名鉄名古屋本線東岡崎 徒歩8分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0564-21-3917 |
FAX番号 | 0564-21-3215 |
公式サイトURL | http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/ |
御本尊 | 一光千体阿弥陀如来
如意輪観世音菩薩 |
宗派 | 浄土宗 |
創建・建立 | 文明7年(1475年)2月22日 |
由来 | 応仁元年(1467年)八月二十三日 井田野の合戦で多くの戦死者が出て、悪疫が流行したので 松平親忠公は 勢誉愚底上人に帰依して 七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚をつくって葬った。その後、文明七年(1475年)親忠公は、熱心な念仏者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
それ以来、大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として一千石近い禄を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。現在でも、岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。本尊の阿弥陀如来は鎌倉初期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。 親忠公は愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。 松平第九代の家康公は、十九歳の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念仏の教えの尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念仏者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土、欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖洞和尚が門の貫木を引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。 家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。 家康が陣中において人知れず書いた「陣中名號」は沢山あるが、この寺にも珍蔵されている。 松平御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓も岡崎市民により建てられた。三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。 西方に見ゆる多宝塔は天文四年(1535年)松平清康公の建立で、重要文化財に指定されている。本堂と大方丈は安政二年(1855年)に焼失したが、安政四年、十三代将軍家定公の時に再建された。 大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉爲恭の描いたもので、百四十六面あり、重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。 |
神社・お寺情報 | 札所:三河新四国霊場 21・22番
三河観音霊場 3番 |
例祭日 | 1月1日:修正会(新年の祝福祈願) 2月3日:初観音並びに節分会 2月25日:御忌会 法然上人ご命日 3月17日:春彼岸 祠堂法要 3月20日:春の一斉清掃 4月17日:御神忌法要・熊野権現祭 5月16日:人形供養会 7月18日:盆前の一斉清掃 8月6日:暁天講座 盆施餓鬼会 放生会(生物の命を尊ぶ感謝供養) 9月17日:秋彼岸 地蔵盆(檀信徒先祖供養会) 10月17日:納骨法要(阿弥陀堂) 11月14日:十夜法要(百八灯) 11月27日:秋の一斉清掃 12月31日:浄焚法要(諸願成就祈願のお日焚き) 除夜の鐘 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】SFUKU 【 最終 更新日時】2023/08/16 14:35:37 |