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基本情報
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住所 |
埼玉県狭山市広瀬2-23-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
西武池袋線入間市 徒歩26分 |
御朱印授与時間 |
【毎月1日・15日】午前中
|
電話番号 |
04-2953-2606 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
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御祭神 |
主祭神
・若宇迦能売命(ワカウカノメノミコト)
相殿神
・八衢比古命(ヤチマタヒコノミコト)
・八衢比売命(ハチマタヒメノミコト)
・久那斗命(クナトノミコト) |
創建・建立 |
景行天皇の御代(3世紀頃) |
旧社格 |
県社 |
由来 |
「大和時代の景行天皇(第十二代)の御代、日本武尊命東国平定の折、当地が大和の国河合の地に酷似せりと称し親ら幣帛を奉り、(大和の国の)廣瀬の神を斎き祀りて、武運長久国家安穏を祈誓せられしより創始せり」との社殿があり、創立は、三世紀に遡る。
境内掲示板
埼玉縣入間郡水富村大字廣瀬
延喜式内 廣瀬神社
當社祭神は若宇迦能賣命を奉祀す創立年月は詳ならずと雖も傳語に景行天皇の御代皇子 日本武尊東夷を征討し給ふ時に是地相の大和國川合の地に酷似せりと稱し親ら幣帛を奉り廣瀨の神を齊き祀り武運長久國家安穏を祈誓せらりしに依り創始せりと言ふ文徳 天皇の三年六月武藏國廣瀨の神を官社に列すと見え延喜式内社に擧らる爾後崇敬益加り年代の久しき間少も變遷なし
明治六年鄉社に列せられ同七年縣社に昇格す周四十四年四月本殿拜殿社務所其他の設備全く整えり大正九年四月覆殿を再築せり恒例の祭祀弥尊嚴を極むるに至れり當社祭典中尤も盛なるは古式神事にして神輿を四境に巡幸し四隅に塞神を祭るの式あり即ち年穀の豊饒を報賽し惡疫を退却するの儀にして地方より参拜するもの多く頗る賑へり
境内掲示板
廣瀬神社略記
創立
「大和時代の景行天皇(第十二代)の御代、日本武尊命東国平定の折、当地が大和の国河合の地に酷似せりと称し親ら幣帛を奉り、(大和の国の)廣瀬の神を斎き祀りて、武運長久国家安穏を祈誓せられしより創始せり」との社伝があり、創立は、三世紀頃に遡る。
由緒
「狭山市の社寺誌」(市教育委員会刊行)において、「当社は、大和朝廷より勅命により官社に列せられた数少ない神社であり、由緒正しく、当時すでに関東において格の高い名神としてあがめられていた・・。狭山市の神社の中で最も古く、格式高い神社である。」と、記述されている。主たる記録は次のとおり。
(官社) 『文徳天皇実録』の嘉承三年(西暦八百五十年)六月三日の条に「武蔵の国廣瀬の神を官社に列す」との記述あり。
(延喜式内社) 延長五年(西暦九百二十七年)に編纂された『延喜式神名帳』に「武蔵国四十四座 入間郡五座の内一つ 廣瀬神社」と登載されている。
(県社) 明治六年郷社、同七年県社に列せられた。
御祭神
(主祭神) 若宇迦能売命わかうかのめのみこと
(相殿神) 八衢比古命やちまたひこのみこと 八衢比売命やちまたひめのみこと 久那斗命くなとのみこと
御神德
主祭神は、水の守り神であり、風雨の調和による穏やかな世の中、豊かな実りを守る神である。
五穀豊穣、家内安全、健康長寿の御神徳がある。水に因んでの崇敬者は遠方からも見える。女神であり、安産や子育て、家族弥栄など多方面の御神徳がある。
相殿神の三神はいずれも禍を防ぐ神である。除災招福や交通安全、疫病退散などの御神徳がある。
(御本社に当たる廣瀬大社(奈良県河合町)の御記略においては、「主祭神(若宇迦能売命)は、水の守り神である。天武天皇以降歴代の天皇より、風雨の調和、年穀の豊穣等を御祈願され、国家の瑞祥、または禍害あるごとに、奉告御祈願された。」と記されている。
祭事
大祭 春季 四月第一土・日曜日 秋季(神輿渡御)十月第三土・日曜日
中祭 元旦祭一月一日 祈年祭二月十一日 新嘗祭十一月二十三日
小祭 月次祭毎月一日・十五日 *大祓式 六月三十日・十二月三十一日
宝物
崇光天皇御宸翰 一軸
豊後住人増定秀太刀 一振
御正体(御鏡懸仏) 一枚
備前長船住人祐定太刀 一振
槍 鎌倉鍛治山村綱広作 一点
文化財
埼玉県指定天然記念物 大欅二本(御神木)
一号木 周囲(根回り十.二米・目通り六.三米)、高さ二十八米
二号木 周囲(根回り十.五米・目通り六.五米)、高さ三十一米
狭山市指定文化財(工芸品) 神輿一基
狭山市指定無形民族文化財 広瀨囃子
末社(境内社)
杉森稲荷社 (祭神)保食命、猿田彦命、大宮廼売命
八幡神社 (祭神)応神天皇
霞神社 (祭神)大国主命、少彦名之命、神霊百十七柱
社容整備
明治四十二年、本殿及び拝殿を境内北隅から現在地に遷宮。大正九年、本殿覆殿再築。 昭和七年、神楽殿を改築。昭和十五年、紀元二千六百年記念事業として太鼓楼を新築。昭和四十三年、明治百年記念事業として社務所建築。昭和五十五年社容整備(外柵、玉垣、端末社等の改築修繕等)。平成八年大欅樹勢回復事業。平成十八年、拝殿改修、向拝増築。平成二十一年鳥居再築。
延喜式内 廣瀨神社
(平成二十三年 氏子中)
新編武藏風土記稿
高麗郡上廣瀨村
和名鈔ニ此村ヲ入間郡ノ部ニ載ス 延喜式神名帳ニモ入間郡廣瀨神社トアリ 文德實錄ニ云 嘉祥三年六月己酉詔以武藏國廣瀨神社列於官社傳云景行天皇ノ御宇大和國廣瀨郡廣瀨神社ヲ遷セシニヨリ村名トス 高麗郡ト唱ヘヌルハ近世ノコトニ思ハルヽナリ事ハ總說ニ辨セリ
廣瀨神社 村ノ東南下宿ニアリ 當社ノコトハ延喜式神名帳ニ武藏國入間郡廣瀨ノ神社トアリ 官社ノ說ハ前ニ辨ス 相傳フ祭神ハ太田命倉稻魂命ナリト 今祭ルトコロハ白髭明神ナリ 神體ハ束帶セル木ノ立像ニテ長一尺二寸 又本地佛ノヨシ徑リ六寸四分ノ圓鏡中ニ鑄造セル佛像アリ 像ノ左右ニ奉納武州高麗郡廣瀨鄕大旦那天正十年壬午九月吉日諸旦那敬白トヱリ像ノ下ニ景吉繁昌トアリ 神體佛像共上ニ圖ス 社地一段一步ヲ除ス コノ餘林一段畠一段八畝アリ 往古ノコトハ更ナリ 今ハ僅ニ上下廣瀨村ノ鎭守ニテ例祭九月十九日ナリ 社邊ニ竹樹生茂リ中ニモ古木ノ大槻三株アリ 是ヲ神木トス 一ハ圍二丈 一ハ圍一丈五尺アマリ一ハ二丈六尺餘ナリ 是等ヲ見テ舊跡タルコトシルヘシ 別當寶藏寺ハ社ノ西ニアリ |
神社・お寺情報 |
式内社で、武蔵国入間郡五座の一社。
柏原の白髭神社の兼務社。
市指定文化財
廣瀬神社大欅樹勢回復工事概要
この大欅は、江戸末期の「新編武藏風土記稿」に御神木と説明されており、また「巨樹·巨木林調查報告書」(一九九一年環境庁)「目通り六メートル三〇、樹高三十ニメートル」と記録されている。
樹齢は八〇〇年と伝えられる御神木であり長寿祈願にあやかれる。初夏には、アオバズクやツミ(鷹)の営巣を観察できる。
(工事概要)
実施主体 廣瀨神社大欅樹勢回復実行委員会(会長宮野仁太郎)
工事对象 市指定文化財大欅2本
契約額 六一七三三〇〇円
請負者 野村技術士事務所
樹木医野村静男(長瀞町)
新井土建(当所)
エ期 平成八年十一月~平成九年三月
(募金状況) 平成八年十二月現在
募金協力者 一八七三名
募金額 二八七七〇九二円
(市·県補助金) 三五〇〇〇〇〇円
平成八年十二月 廣瀨神社
埼玉県令白根多助歌碑(魚子織ななこおり碑)
埼玉県令白根多助
奈々こ於梨 廣瀬乃浪農 安や那累遠
堂礼川越能 名弥流志計無
(ななこ織 広瀬のなみの あやなるを たれ川越の名に流しけむ)
御歌所勤務官内属 大口多比之書
埼玉県令白根多助が廣瀬の魚子織を讃えて詠んだ和歌であり、書は、宮内省御歌所の大口多比之の揮毫である。
碑の裏面に、「明治二十四年 衆議院議員清水宗徳選書」として、「県令の当地巡回(明治十年十一月)の際に、廣瀬魚子織の沿革や品質向上策などの説明を受けて感賞の余り詠まれた和歌であること。」「魚子織の嚆矢は当地であることを後世に伝えるため碑を建てた。」 旨記されている。
白根多助(文政二年~明治十五年)第二代埼玉県令(知事)
埼玉県の基礎を築いた名県令(知事)と謂われている。優れた文人でもあり、 遺稿歌集(『梅園余香』)の九五首の中にこの和歌は収められている。
大口多比之(本名・鯛二)(元治元年~大正九年)歌人、御歌所職員
(御歌所は、歌会始の事務や皇族に書や和歌を指南する組織。)
明治天皇、昭憲皇太后御集編纂に携わる。名筆家。
参考文献 日本人名大辞典(平凡社) 埼玉県文書館紀要第二七 二九号
ななこ織について
ななこ織は、主に男物の羽織や袴、帯として愛用された高級な絹織物です。
明治初期、同業者で、「廣瀬組」を組織して品質管理に努め、内外の博覧会で優れた品質を認められました。江戸の市場では高値で取引をされまし たが、川越魚子と称されていたため、廣瀬産であることを広めるために県令の和歌を刷り込んだ「廣瀬魚子」の商標をつくり製品に貼付しました。
年ごとに生産高を増やし最盛期には生産者が百戸ほどになるほど栄えましたが、綿織物の出現により、明治三十五年を境に需要が急減したため明治末期以降は生産を休止したり業種転換をしたため、威勢の良い機織りの音を再び耳にすることはできなくなりました。
参考文献 狭山市史通史編 II(斜子織の発展とその衰退)
大欅樹勢回復事業二十周年記念として
平成二十九年 氏子中
芭蕉句碑
物言婆 唇さむし 秋之可是 はせを
(物いへば唇寒し秋の風 芭蕉)
(裏)明治十一年 四月 不朽軒宗徳書
(不朽軒は、清水宗徳の俳号)
松尾芭蕉、元禄四年秋の作。季語は秋の風。
句の意味は、人中で物を言えば、秋風が唇にしみるように、心に悔やまれることが少なくない。自分の言った言葉について、反省され悔やまれることを、秋風がひやりと唇に感じることであらわしている。
芭蕉はこの句の前に 「人の短をいう事なかれ、己の長をとく事なかれ」 と記し、柱かくしに掛けて、自らの警めとしていたそうである。
芭蕉が当地を来訪したとの記録はないので、望ましい郷づくりに努めていた宗徳が、言葉の大切さを呼びかけるにふさわしいとの気持ちからこの句を選び、揮毫されたものと思われる。
参考文献「芭蕉俳句大成」(明治書院刊)
江東区立芭蕉記念館調べ
大欅樹勢回復事業二十周年記念として
平成二十九年 氏子中
埼玉県指定文化財 天然記念物
廣瀬神社の大ケヤキ
所在地 狭山市広瀬ニーニ三ー一」(廣瀬神社)
指定年月日 平成十年(一九九八)三月十七日
ケヤキは楡科の落葉高木です。農家では防風林として植えることが多く、武蔵野の景観にとけこんでいる馴染みの木です。普通、高さは二〇メートルぐらいまでですが、この大ケヤキは高さ約三〇メートル、周囲約六メートルというまれに見る巨木で、樹齢七~八〇〇年と推定されます。
江戸時代末期の書物『新編武蔵風土記稿』の廣瀬神社の項 に「......社辺に竹樹生茂り中にも古木の大槻三株あり、是を神とす、一は囲ニ丈、一は囲一丈五尺、一は囲ニ丈六尺余 なり、是等を見て旧跡たることしるべし......」とあります。 現在はケヤキの巨木ニ本が相対して境内に立っております。
平成十六年一月
埼玉県教育委員会
狭山市教育委員会
狭山市指定無形民俗文化財
広瀬囃子
伝承地 狭山市広瀬ニーニ三ー一」(広瀬神社)
指定年月日 昭和五十ニ年(一九七七)九月一日
広瀬囃子は江戸末期の万延、文久のころ、「笛の佐平にや鶯さえも唄を忘れて聞きほれる」と江戸末期に俗謡にまでうたわれた「佐平の笛」こと村木佐平と「天孤の喜十郎」こと飯島喜十郎らが中心になり、神田囃子を学んだことに始まるといわれています。
囃子は享保年間(一七一六~三五)に江戸の葛西郡香取明神を中心に神楽囃子として作り出され、文化、文政年間には近在に普及しました。現在埼玉県内に分布しているものを大別すると、江戸系統の葛飾囃子、神田囃子、上州系統の三手古雅子、それに本県独特の系統の秩父囃子の三系統があります。入間、比企地方には神田囃子が多く、その中でも広瀬囃子は、県内でも珍しい神田古囃子を受け継いでいます。
曲目は屋台、聖天、大馬、鎌倉、師調目、仁羽、などで六曲あり、使用楽器は大太鼓一、小太鼓ニ、鉦一、笛一」となっています。
毎年、広瀬神社の元旦祭、禅龍寺の節分会(二月三・四日)、広瀬神社春祭り (四月第一土曜・日曜日)、秋祭り(十月第三土曜・日曜日)、広瀬浅間神社の火祭り(八月二十一日)などに奉納囃子がおこなわれています。
平成十五年三月
狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会
狭山市指定文化財 工芸品
神輿
所在地 狭山市広瀬二丁目二十三番一号
指定年月日 昭和六一年(1977)十一月一日
この神輿は、今からおよそ百四十年前の元治元年(1864)に当所の名主・清水寛右衛門宗宝により奉納されたもので、作者は当所の大工・横田長太夫です。
宝形造りで、全面黒漆塗り、四方の鳥居と垣及び内部は全面朱漆塗りです。壁面の一部は浮き彫りで、金箔押しとなっています。下框や屋根の頂など随所に透かし彫りや毛彫りによる金銅板の金具がとりつけられています。
四方の垂木下には金銅板の飾り板と小さな円鏡数十個が玻璃の玉を通した金糸で綴られ、垂れ飾りとなっており、格調が高く豪華絢爛な神輿です。
神輿並びに神輿殿建立の棟札があり、その中に次の墨書きがあります。
武蔵高麗郡廣瀬巴
別當名主
社補 清水寛右衛門宗宝
元治紀元甲子稔秋九月
大工 當所 横田長太夫
下枢122cm ×122cm 高さ228cm(鳳凰まで)
平成二十年三月
狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会
不朽梅
梅の木は、樹齢二百年を越えるとねじれてくるのだそうです。
この梅の木の樹齢は四百年位(樹木医の診断)とのことですが、老いてなお、花を開かせ、新しい芽を伸ばすなど勢いがあります。
郷土の偉人清水宗徳翁は、境内にある 「安政の句碑」の中に次の句を遺しています。
月澄めば香も一入ぞ梅の花
当神社の社容整備はもとより、近代日本の黎明期における宗徳翁の功績を讃え、偲ぶよすがとして、この梅の木を「不朽梅」と名づけることとした。
宗徳翁の俳号不朽軒義同そして逞しく生き続ける梅の木に因んでの命名である。 遷宮百年・翁没後百年記念として
平成二十二年春 氏子中
安政の句碑
この石碑は、安政五年(西暦一八五八年)に当地在住の十八名の方々による合同句碑として建てられたものであります。
碑の表には俳句と俳号、そして裏面には姓名が刻まれている。
十六番目の「義同 清水要次郎」は、郷土の偉人清水宗徳の十五歳時の俳号と幼名である。
十八番目の「義正 清水寛右衛門」は上広瀬村名主で、宗徳の父親である。
文字を書かれた「台陽」は、江戸下谷に住み、門人千人を超すといわれた高名な書家 梅沢台陽(敬典)である。
題箋の「鶯蛙吟和」は、「古今和歌集」の序文をふまえたものと解されている。
碑の建立時期、高名な書家による揮毫、そして優れた俳句の表現などを勘案すると素養の深い識者によって句会が導かれ碑が建てられたものと思われる。
豊かな田園風景の中で新しい文化に親しみ、観察眼や感性を磨きながら稲作にいそしんでいたであろう生活ぶりを窺うことができる。
参考文献 「若葉会創立五十周年記念誌「大樺」 「平凡社刊 日本人名大辞典」
菴から見ごろに隔つ桜かな 里玉(岸晋兵衛)
瀧川や砕ける水に春の色 羽雪(山崎仲次郎)
際立ちて見ゆる花野の流れかな 豊山(清水豊次郎)
江の浪につれて芒の戦ぎかな 慎風(岸野直吉)
稲妻や遠くもあらぬ雲催ふ 住雪 (山崎忠次郎)
苗代の水に澄みけり朝の月 芳雨 (山崎房次郎)
松虫にさわりて吹くやまつの風 綠塘(横田素平)
藻の花や此照る中を濡れて咲く 李月 (糟谷利八)
日の暮れる田に並びけり冬の雁 曾伯 (糟谷仙造)
餘の鳥と声は競はず郭公 芳玉(岸国五郎)
山まではひと平なり雪の原 柳糸 (江原仁三郎)
近よれば馬も嘶く桜かな 登月 (山影徳兵衛)
大原や何処ともなしに虫の声 西笑 (下邑八左衛門)
涼風や松に暮れゆく河原道 泰貫(下邑政吉)
世を遍るや更に心の猿廻し 来夫 (大泉元叔)
月澄めば香も一入で梅の花 義同 (清水要次郎)
田の実入り十分見えて后の 水翁 (清水樹右衛門)
積もる雪世の潤ひのはじめかな 義正 (清水寛右衛門)
(平成二十五年三月 氏子中)
社号額の「廣瀬神社」の文字は、 「明治の三筆」と称された維新の志士野村素介の書です。
野村素介 天保十三年五月十八日(一八四二)~昭和二年十二月二十三日(一九二七)
父は長州藩士有賀留之介。長州藩の藩校明倫館で学んだ後、江戸にて漢学、兵学、書道を学んだ。
帰藩後明倫館舎長となり、同藩士野村正名の嗣子となる。幕末、尊攘を唱え国事に奔走。維新後、欧州視察(一八七一)を経て文部大書記官などを歴任し、貴族院議員に勅選された。
晩年は書家として著名で書道奨励会の会頭を務め、杉孫七郎、日下部鳴鶴らとともに明治の三筆と称された。
資性温厚で質素をたっとび、気品高く、人に対して親切丁寧であった。
参考文献:
朝日新聞社編「日本歴史人物事典」 山口県萩市商工会議所(萩市出身の志士)
*神社正面(鳥居前)に建つ石碑(「縣社 廣瀬神社」) とあわせご覧下さい。
御遷宮百年記念として 平成二十二年秋 氏子中
清水宗徳顕彰碑(原文転写)
枢密顧問官從二位勲一等子爵黑田清綱題字
清水宗徳は埼玉県入間郡水富村上広瀬の人なり天保十四年十二月十一日生る累世大庄屋にて農を以て聞ゆ性強剛にして事に倦ます夙く余が門に入りて図書を学ひ敬神尊王愛国の志厚く且よく後進者を誘導し公共の事とし言へば寝食を忘家財を抛ちても尽すに至る明治三年村有なる馬草地を毎戸に割渡し桑樹の植付を奨励し細民には無償にて之を授与せり同六年教部省より教導職を拝せしも思由有て之を辞す同七年郡内の養蚕旧式なるのみならす其の飼育法の甚幼稚なるを憂上信甲の三国を漫遊し自身其業に当り発明せし所少からぬを以て同八年養蚕室を改築し新飼育を施し衆庶の縦覧を許し一般の参資供ふ同九年上毛の前橋在なる関根製糸場に妻子及村内の婦女十数名を率て至り私費を投じて其業を習はしむ同年十一月暢業社製糸場を開設す比県下に於る製糸場の嚆矢なりしか故に当場の女工は漸次練熟するに随ひ新設工場に傭はるる同十年者多かりき同十年入間足立大里児玉秩父の諸郡に亘り製糸上の連合発展の計画を成し同十二年其直輸出の法を講し同志者と謀りて横浜市に生糸同伸会社を設置し尋て製糸場の余水を利用し更に水車場を造営し米麦の搗挽絹綿の差掛をなす等に供ふ十九年本部蚕糸組合長に選ばれしに尚蚕糸業の完全ならさるを思ひ俸給の全部を寄付し顕微鏡数台を購入して教師を招聘し郡中よ り三十余名の生徒を募り之を講習せしめて開発を計りぬ比を以て県民の信頼を博し初期の県会議員となり又衆議院議員に選はる同二十三年川越鉄道を布設し地方の便益を増進せむとし屡々上京して諸氏を訪問し財力と苦心とを積み同二十六年成功せしむ同二十四年北門の経営一日も忽処にすへからさるを感し先つ空知郡奈井江の山林原野数百町歩を払下け四五百人を督して彼地に赴き開墾の業を創め永住者には無代にて共地を譲与一部落を新設したり曽て入間川の河底毎歳浅まり行き沿岸水害を免れさるを憂ひ居りしか東京市に砂利の需要多きを地方細民の業務少きとに考へ之を採掘して輸送するは自然河身を浚い民業を増し水難を防く足るに事を量り即ち其筋の認諾を経て川越鉄道と特約し同三十五年より東京に輸送を開始せしに成績頬る良好なりきとそ又商工業の発展に伴ひ鉄工所の必要なるに当り地方は野鍛治のみなるを遺憾とし次男をして其の業研究せしめ以是か主任たらしめ入間川町鉄工所を新設し多くの鉄器械を製造し県下の利便となりぬ同年七月入間馬車鉄道株式会社の社長兼取締役となり其俸の全部を投して維持の方法を講し遂に永続を期するに至ると言う鳴呼実に本県に於る有数の人にして事業家の好亀鑑たりしを明治四十二年八月十八日六十七歳にて病没せしは甚惜むへし同月二十日神葬の式 を以て最終の礼を畢るその一世の事蹟は枚挙に堪へされ共今著名なる条項のみを総撮して茲に其の梗概を識すになむ
図書寮編修官從五位勲五等文学博士 井上頼国撰
泰官御用掛御歌所從五位勲五等 坂正臣書
(裏面)大正三年(1914) 五月清水宗徳顕彰会之建
(平成二十九年 氏子中) |
例祭日 |
【大祭】
4月第1日曜日 春季例大祭
10月第3日曜日 秋季例大祭
【中祭】
1月1日 元旦祭
2月11日 祈年祭
11月23日 新嘗祭
【小祭】
毎月1日・15日 月次祭
【大祓式】
6月30日 夏季大祓
12月31日 冬季大祓 |
神紋・寺紋 |
右三つ巴
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/11/03 06:17:02
|
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