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★★★ 参拝日:2025年8月13日 13:49
★ 参拝日:2024年9月1日 13:01
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 埼玉県桶川市川田谷1176 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | JR高崎線桶川 徒歩39分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0487870615 |
FAX番号 | 0487861857 |
公式サイトURL | https://www.iouzantokouji.com/ |
御本尊 | |
宗派 | 天台宗 |
創建・建立 | |
由来 | 境内碑
東光寺本堂落慶記念碑 明きらけく 後の佛の御代までも 光りつたえよ 法のともしび 夫レ当山ハ天台宗二屬シ医王山泉受院東光寺ト号ス約二百八十四年ノ歷史ヲ有ス本堂再興ニ当リ当村薬師堂区松原区樋詰区及ビ檀信徒各位ノ尽力大ナリ中デモ東京都千代田区神田農業図書株式会社会長加島肇照夫妻ノ至誠報恩ノ念篤ク拠出金莫大ナリ宗祖傳教大師最澄ノ「一隅ヲ照ラス則チ国ノ寶ナリ」茲ニ本堂落慶ヲ祈念シ天台宗座主第二百五十三世山田恵諦大僧正猊下ヨリ特ニ表題ヲ下賜サル 昭和五十年落慶ス 東光寺中興二世 僧正亮克代 謹書 |
神社・お寺情報 | 境内掲示板
医王山東光寺 六阿彌陀如来の由来(狐塚千本槍より) 明和二年(一七六五)正月四日三保谷村(比企郡)農民は甚左衛門の屋敷を襲った。その数一万弱(記録は七万八千とか県文書課長森田氏談)竹ヤリ、屋根に石、目つぶしの砂俵、東隣りの平助の屋敷を襲撃し全壊そして甚左衛門宅へ、そこに泉福寺の僧が来り「我々が甚左衛門の屋敷を壊す、それで我慢してくれ」と調定案ができたが門の中から薪が投げられ、これに怒り屋敷になだれこんだ、護衛固く数千人が殺され石の雨、記録はその犠牲者三千、手負い二千、甚左衛門方も五百余人の死傷者を出したと記してある。「百性は皆化される狐塚死ぬ死なぬも大方は屁」という狂歌が残されている。母家の床柱に古い刀傷が残り屋敷の一部は川田谷中(現在川田谷小学校)に使用されていた。 兩家は明治中頃跡絶えた。後継者の中から二人佛門に入り川田谷の地に六つの阿彌陀石佛を建立したのが高橋善八郎常禅師である。本堂内陣に師の位碑(權大僧都法印常禅位)有り、したがって狐塚と東光寺の関係深く、愛宕さまの地蔵佛も東光寺に安置してあり、禅師は農民祖先の供養をする為、東光寺本尊佛薬師如来、不動尊に祈願し、その名号五千遍、阿彌陀経一万五千遍読誦。地蔵菩薩(本堂内安置)名号一万遍唱え、六字の名号(南無阿彌陀佛)一万石に書写(境内にその写経石有り)。過去、現在、未来の三世の師表、六親眷属の極楽往生を願い、文化二年から四年かかって建てられた石佛の阿彌陀様で利益あらたかである。堂宇はもと雨にさらされておったが、この話しを聞き現本堂建築の社寺一級建築士馬場寛一氏が寄進されたものである。本堂は昭和五十年完成。 なお六阿彌陀佛の所在を示さば 第一番 藥師堂 東光寺 文化二年八月二十五日 本堂向って左方 第二番 狐塚堂坂 地蔵堂 文化五年秋彼岸中日 堂に向って左方 第三番 砂谷戶 観音堂 文化四年六月十八日 堂に向って左方 地蔵様傍 第四番 前領家 観音堂 文化五年秋彼岸中日 堂に向って左方 第五番 東漸寺現泉福寺大堂 文化四年秋彼岸中日 仁王門を入り左方 第六番 松原 双龍寺 文化四年春三月彼岸中日 堂に向って左方 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2025/08/13 19:56:53 |