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基本情報
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住所 |
埼玉県久喜市上清久673 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武伊勢崎線鷲宮 徒歩29分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0480220496 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
埼玉郡上淸久村
常德院 禪宗曹洞派鷲宮村靈樹寺ノ末 白幡山權現寺ト號ス 開山起屋庭宗天正十五年四月七日示寂 本尊彌陀ハ慈覺大師ノ作ニテ立像一尺餘 此外聖德太子自作ノ壽像及虛空藏且運慶ノ作毘沙門天春日ノ作千壽觀音ヲ安ス 當寺境內ヨリ白幡權現社地ノ邊淸久次郞城蹟ナリシ由 今モコノ邊ヲ掘レハ矢ノ〇ナト出ルコトアリト云 |
神社・お寺情報 |
境内掲示
【清久氏館跡】
常徳院から雷電神社にかけての境内は楕円形の小高い台地の上にある。周囲は構え堀のごとく水路がめぐり、戦前までは白幡沼と呼ばれる広大な湿地帯が南東方向に広がっていた。
中世には奥州へと伸びる鎌倉街道(奥大道)が南北につらぬき、また武蔵国と下総国の国境であった川口の渡し(旧利根川)を北方4kmに臨んでいた。天然の要害・交通の要衝を兼ねたこの地に、平安時代末期から南北朝時代までの約170年間、在地領主であった清久氏が館を構えていたとされている。
清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野国の小山氏・下総国の下河辺氏とは同族にあたる。大河戸御厨〈松伏・吉川・三郷・八潮〉を治めた大河戸行方(重行)の子息で太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏を〈加須〉、四郎行平は葛浜氏〈羽生〉をそれぞれの領地名から名乗った。治承五年(1181)大河戸四兄弟は三浦介義澄に伴われて源頼朝に拝謁、「皆勇士の相を備えている」と頼朝に気に入られたと『吾妻鏡』に記されている。清久次郎秀行は頼朝の二度の上洛に随従するなど近習として名を残しており、子孫には承久の乱(1221)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(京都府福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行などの名を見ることができる。
また『太平記』には中先代の乱(1335)で北条氏に従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
その後は阿波国(徳島県)に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582)中富川の戦いで十河存保に従って長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子で知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。
常徳院に残る永仁六年(1298)銘の板石塔婆や応安元年(1368)銘の宝篋印塔の残欠などは清久氏一族の供養塔とされ、旧本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代末期から南北朝時代の造像で清久氏の守本尊と伝わっている。 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/01/25 16:08:54
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