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★★★★ 参拝日:2024年3月24日 16:57
こちらもいい雰囲気の神社ですね。 立派な楼門です。 もちろん神牛さんもいますよ🐂
★★★ 参拝日:2018年12月15日 00:00
堺の街中にご鎮座。 街中ですが、夕方のお詣りだったこともあり、落ち着いた境内でした。 駐車場は社務所に伝えると、停めさせて頂ける場所を教えて頂けます。 御朱印をお詣りの後で頂きたいですとお話しすると、「よかったら準備しておきますので、その間にお詣りください」とのお言葉をいただき、甘えさせていただきました。 御朱印は3社頂けます。(3社で800円) 全て頂戴致しました。
参拝日:2023年5月17日 15:42
参拝日:2019年3月30日 13:30
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
| 住所 | 大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38 |
| 五畿八道 令制国 |
畿内 和泉 |
| アクセス | 阪堺線大小路・北花田口東側 |
| 御朱印授与時間 | |
| 電話番号 | 072-232-2450 |
| FAX番号 | 072-221-6215 |
| 公式サイトURL | http://www.sakaitenjin.or.jp/ |
| 御祭神 | 菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
天穂日命(あめのほひのみこと) 野見宿祢(のみのすくね) |
| 創建・建立 | 長徳3年(西暦997年) |
| 旧社格 | 郷社 |
| 由来 | 今から千年以上前、節摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。
これは、菅原道真公が配流された大宰府の地で自ら作られ、海へ放された七天神のうちのひとつと伝えられています。 ご神体はしばらく付近の住人によって、大切に祀られていましたが、摂津の国北の庄の氏神であった、天台宗威徳山天神常楽寺(てんだいしゅういとくざんてんじんじょうらくじ)の僧徒がご神体を同寺に遷し、長徳3年(997年)に天神社を創建したことが菅原神社の始まりです。 この時に常楽寺でお祀りしていた春日明神と山王権現と共に祀られました。 道真公が大宰府で亡くなられてから90年以上後のことで、都では藤原氏一族の摂関政治が続き、中でも3人の娘を天皇に嫁がせて政治の実権を握る藤原道長の全盛時代が訪れようとしていました。 (注)今の大阪府と兵庫県にあたる摂津の国は、古から大和、山城、河内、和泉とともに、畿内五ヶ国のひとつです。 堺の名前は、摂津、河内、和泉の境になっていることに由来すると言われています。 中世初期には、北の庄(摂津)、南の庄(和泉)、の二つに分けられていました。 時代は、応仁の乱から戦国時代へ。 貴族社会から武士社会への国の仕組みが大きく変化する中で、天神社は厚い道真公信仰に支えられていました。 しかし、天文元年(1532年)12月14日、夜半に北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる4,000軒を焼きつくしました。 それから約40年、天正2年(1574年)当時の神社の配置図を見ると、本社、拝殿、大梵天堂、金殿、観音堂、薬師堂、護摩堂、御影道、食堂、経堂、連歌所、塔、鐘楼、仁王門および南北の門がえがかれており、再建後、敷地と規模を拡大させていたことがうかがえます。 また本社、大梵天堂、観音堂などの名称から、神道と仏教の建物が共存していたことが示されています。 ここに記されている連歌所とは、ご祭神に奉納する法楽連歌を詠む建物です。 中世から近世にかけて、学問、詩歌、芸能の神、道真公にちなんで、各地の天満宮や天神社では連歌の会が盛んに開かれており、菅原神社でも法楽連歌の会が行われていました。 平穏な時代は終わり、年慶長19年(1614年)豊臣方と徳川方との間に大阪冬の陣、翌年には夏の陣が勃発します。 その直前、豊臣方の武将、大野道犬(おおのどうけん)は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、菅原神社はまたも焼失してしまいます。 しかし、承応元年の菅神750年祭を機に再建に努め、翌年、新殿が完成、ご神体をお遷ししました。 「元禄二年堺大絵図」には堺の町全体が詳細に描かれています。 当時は「北の天神、南の開口(あぐち)」と呼ばれ、堺の町を東西に貫く大小路通の北を天神社が、南を開口神社がそれぞれ氏神として祀られていました。 ところで、時の為政者と菅原神社の関係について、豊臣秀吉は、免税などを保障する220石のご朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられています。 明治維新は、国政をはじめ、さまざまな分野に大きな変化をもたらしました。 そのひとつが神道と仏教を分離する「神仏分離」制作でした。 徳川幕府が行ってきた、神仏まざり合った宗教制度を一新して、新政府による神道国家を確立するために、神道と仏教を明確に分離する方針を示しました。 これにより年明治5年(1872年)、天神社は大梵天社など仏教関係を廃絶。 明治という大きな時代への転機を機に、天神社を菅原神社と名称を改めて、新しい歴史を紡ぐことになりました。 そして近隣の神社を整備し、管理体制を整えるため、明治40年(1907年)は、宿屋町の薬祖神社、翌年には、宿屋町の事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を境内に遷してお祀りし、戎之町の事代主神社を菅原神社の飛地境内地である戎島の恵比寿神社に遷してお祀りしました。 戦争の世紀と呼ばれた20世紀。なかでも第二次世界大戦は日本に大きな惨禍をもたらしました。 戦争が激しさを増した昭和20年(1945年)、堺もこの年だけで5回の空襲を受けましたが、なかでも7月10日の大空襲では死者1,860人、被災者数7万人という甚大な被害を受けました。 菅原神社も戦火により、随身門と金毘羅宮を残して建物や宝物が完全に焼失しました。 しかし戦後復興のよりどころとして再建の声が高く、それを受けて昭和26年(1951年)1月に菅原神社と戎神社、昭和30年(1955年)8月に薬祖神社、の三社が再建されました。 幸いに焼失を逃れた金毘羅宮は、菅原神社の拝殿の一部として使われています。 また、同じく焼失を逃れた随身門は修復保存され、昭和41年(1966年)1月25日に大阪府の有形文化財指定の栄誉を受けています。 この随身門には、堺の武将小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納した笠松の大木の幹も保存されています。 そして新世紀、天文元年(1615年)の大阪夏の陣、第二次世界大戦など幾多の焼失を乗り越えた今、菅原神社では往時の再現をめざして復興事業が進められており、そのスタートとして、平成13年(2001年)に稲荷神社が再建されました。 |
| 神社・お寺情報 | |
| 例祭日 | 9月13日・14日[八朔祭(例大祭)] |
| 神紋・寺紋 |
星梅鉢
|
| 更新情報 | 【
最終
更新者】紅丑 【 最終 更新日時】2018/08/29 18:23:53 |





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