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田中さん
2016年7月18日 00:00
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基本情報
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住所 |
和歌山県新宮市佐野山田1065 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス |
JR紀勢本線紀伊佐野 徒歩2分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0735-54-0818 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
(主祭神)天御中主神 (配祀神)武南方大神 八坂刀売神 天照大神 仁徳天皇 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
当神社は狭野荘総鎮守として佐野字中地宮盛芝三五九番地に鎮座せしが、延宝五年巳(一六七七)年三月現在地に遷座する。当地は産土神に加へ、戦国時代後鉱脈を温存する目的で「妙見神」を祀っていた。 明治四十四年一月二十六日神社合併の許可を受け、明治四十五年二月十一日より合祀神社(下諏訪、若一王子)となる。有史前は先祖の渡来と稲作伝播、海族と徐福集団(二、二〇〇年前)弥生遺跡(一七〇〇年前)頃より海族の活動範囲が知られている。熊野征伐頃には狭野の秋津野(古代韓国語では稲穂の実る平野)で集団を養う米が生産されていた。有史後、最澄の母「明徳、石垣家出身」の寺、大雄禅寺が宇久井に建立された(金剛峰寺建立の六十五年後)。この寺は神仏習合の神宮寺である。江戸末期吉野の水分(みくばり)神社を残し、大峰山系神社が焼き打ちにあう。安政元(一八五四)年十一月四・五日大地震と津波で郷社が流失し、現在地に遷る。明治元年の神仏分離令と廃仏毀釈運動で狭野文化財は喪失、熊野四山の一角が崩れていく。 大化の改新後、行政区画の線引き、墾田永世私財法が荘園制になり、荘園制が武士の手中に握られていく院政政治の混乱期、三上皇の熊野参詣、八幡社に集合する源氏水軍、平維盛の敗走、北条政子の参詣、戦国時代の堀内氏善安房守(海族、藤原純友系)が下諏訪、上諏訪神社を祀り、曹洞宗で思想統一し、狭野荘を郷社格とした。又水野氏も石垣系との関係が深かった。これらは狭野荘の治安、食糧、海運力、自衛力があった証である。 大雄禅寺の神宮寺に、産土神、海山、貿易、農耕、武の神々を祭祀していた。時代の激動で転々と鎮座地が変わり現在地で祀る。祭祀の由緒は古代から深い歴史的背景を持つ。狭野荘は狭野・宇久井・高津気・三輪崎・木ノ川・狗子ノ川で、各社は各々蛭子神の神事形態の片鱗を残している。 佐野荘分離後 天御中主神を主神に三社を合祀し、大陸系、古代韓国系、須狭系、藤原系、神宮寺系、天皇系、諏訪系をそれぞれの時代に即応して主神をお祀りする。(社叢)南方植物の集約地である。(例祭)天保年間の石垣古文書「当家割り当て、式次第上物」を概ね踏襲し、石垣家当主の御臨席をえて、斎行する。神賑行事は「餅ほり」で、八俵十俵の餅をつく、同時に「厄祓」の行事も行なう。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
1月9日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】じゃすてぃ
【
最終
更新日時】2022/02/07 16:06:05
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