みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県東松山市下野本662 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武東上本線東松山 徒歩25分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0493222628 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御本尊 |
|
宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
|
由来 |
新編武藏風土記稿
比企郡野本村
無量壽寺 曹洞派遠江國榛原郡高雄村石雲寺ノ末 天正十九年十一月御朱印ヲ附ラレ村內十石ノ地ヲ賜ヘリ 利仁山ト號ス 寺領ノ外境內一萬四千坪境ノ廻リ四方ニ堤ヲ築キ堀ノ跡殘レリ 當寺ノ濫觴ヲ訪ルニ往古利仁將軍武藏守タリシ時當所ニ住シ後任ミチテ下野國ヘ移リ住ス後土人名將ノ古蹟ナリトテ一寺ヲ建立シ利仁山野本寺ト號ス 然ルニ應仁ノ頃關東乱レ軍勢乱妨シ寺塔傾廢セシヲ長享年中僧性岱ト云ルカ再ヒ起立シ禪刹トナシ利仁山無量壽寺ト號ス 性岱ハ明應五年十月廿七日寂スト云 往昔利仁將軍ノ陣屋ナリナト云モマサシク記錄ナケレハ今ヨリ考フヘカラス 本尊彌陀ヲ安ス 春日ノ作ト云 本堂ノ內古鐘一口ヲ掛ク 相傳フ貞享二年四月本堂後背ノ地ヲ掘リシコトアリシ時地中ヨリ得タリト 此鐘銘ヲモテ當寺元野本寺トイヒシ古刹ナルコト知ラル 鐘銘ハ左ニ載ス
奉鑄鐘一口二尺七寸
野本寺
諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅爲樂
右紀忠淸幷橘氏女爲大施主爲佛法興隆爲衆生利益也
建長六年甲寅二月十五日
白山社 辨天社 稻荷社 藥師堂 利仁將軍社 境內ニアリ繞リ一町四方高サ四五尺ニテ雜木生ヒ茂レル塚アリ 將軍塚又將軍山トモイヘリ 塚上ニ利仁ノ靈ヲ祀レリ 當寺ノ鎭守ナリ |
神社・お寺情報 |
禁葷酒 宝暦四甲戌年二月(1754)
燈籠 文化八辛未年閏二月(1811)
境内掲示板
東松山市指定文化財
野本館跡
(昭和四九年七月一〇日指定)
野本基員を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(八三六~八九一・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物です。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀りは当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた『新編武蔵風土記稿』の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。
館が造られた時期については、基員が貞永元年(一二三二)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長六年(一二五四)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても十三世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。
平成十七年三月
東松山教育委員会 |
例祭日 |
|
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/06/30 06:21:55
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。