みんなの御朱印
自分の御朱印
まだ御朱印が登録されていません
みんなの参拝記録
0
147
自分の参拝記録
まだ参拝記録が登録されていません
みんなの動画
自分の動画
まだ動画が登録されていません
基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県八潮市緑町2-1-12 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
つくばエクスプレス線八潮 徒歩26分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0489961608 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御本尊 |
|
宗派 |
本山修験宗 |
創建・建立 |
|
由来 |
境内掲示
不動尊之由来
武藏國埼玉郡小作田村厄除不動尊之由来を尋るに、人皇四十五代聖武天皇之御宇行基菩薩之御作にて、鎌倉征夷大将軍源頼朝公之近臣に小山左ヱ門尉朝政之弟結城判官七郎朝光とて武功の勝れたるのみにあらず文才風流の達人なり世の人知る所なり朝光父祖代々守本尊也。
然るに正治元年己未の十月思ひ不寄梶原景時が讒言に依て若君賴家公の御不審を豪り、其身を誅戮に及んとの取沙汰有ければ、朝光是を聞より大いに驚き歎と共に無禮方既危急迫りければ、日頃信じ奉る不動に向ひ奉りて此の度不慮の讒言に依而誅せらるべきに極れば心痛言はん方なく、あはれ明王の御慈を得此の災を拂て給へと三日三夜祈誓しければ、不思議なるかな明王の霊験ましけるにや、和田義盛三浦義村藤九郎盛長等来りて談合し千葉介常胤及び小山朝政並びに畠山重忠等六十六人鶴ヶ岡に會合し連判状を以て梶原景時が罪を大江廣元を頼み頼家公に奉り、依て景時鎌倉を遂電致す故に讒者の苦もはれて忠臣の操あらはすこと、不思議なこととて其れより厄除不動尊と名付け奉りて信心日頃に倍したるとかや、其の後結城家代々武功の義は諸軍書にくだし。
然るに御神君の御代、元和二年結城末孫者小石川御屋形へ御取立に相成候、故に予が先祖は本尊を守護致し、寛永七庚午年迠十五ヶ年の間諸國霊山嶽々を修行致し、此年日々疫霊流行致し、春より夏に至ると云ひ共止まず、五月十五日當地に来り安置いたし候得ば、忽ち疫霊退くとかや、其後日増に参詣人多く霊験を蒙る者少なからず、寛永七年より明和五戊子年迠當地に安置する事百四十年、當時の御堂は此の年再建立致候。
其の後寛政六甲寅年五月五日より雨不降六月二十迠雨一向不降照続き、耕作者は勿論草木まで䐉んとす雨請祈願同日より始り七月一日迠三日の間祈念致すと共に、最早八時に相成候得共一向雲掛無く、諸民の慮は不及申祖父今日結願に至り雨不降時は是非も無き次第成る歎念しければ、不思議なるかな此の時本尊八大龍王に奉献霊水忽巻上げ、震動雷電雨降車軸を流し、諸民之難は欽悦に及び、是より豊作に立帰り此之年御公儀様江田畑御年貢定免にて御上納致し候由。
其の後安政二乙卯年十月二日夜大地震、翌三年八月二十五日夜大風雨にて悉く大破、時に寛永七午年より明和五子年迠百四十年此之年再建立、それより今年安政六未年迠百三年、合せて貳百四十三年とす、右之故を以て不動明王の作られしは約壱千年前と推定さる。
現在で当住職とて知る所は、先づ千葉縣人で一心坊と申す者結城より江戸時代に明王之御体を持参致して落ち着き、其之二代目として攝津の人で武州岩槻から流れ来て住職となる佐藤忠信と申す人なり、次に神奈川縣の人で黒江光山と申す人来りて住職となり三代目を継ぎ八十一才にて此の世を去る、現住職之大久保弘山氏は第四代目となり、日夜一生懸命に身心を捧げ祈禱を続け居る次第。
今日に於いては当八汐のみならず、他の市町村等より多数の参詣者を増したる故を以ても、當不動明王の霊験之有難きを知る事が出来る。此の如く誠に由緒深き明王成るが故に永遠に此の由来を残すものなり。
昭和四十一年二月二十八日 筆者古庄要 |
神社・お寺情報 |
|
例祭日 |
|
神紋・寺紋 |
未登録
|
更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/07/17 08:30:10
|
※神社やお寺など日本文化の専門企業が算出している日本唯一のオリジナルデータですので、ご利用になりたい法人様やマスコミの方々は
こちらよりお気軽にご相談ください。
近くの神社・お寺
近くのお城
神社・お寺検索
※は必須です
※「神社・お寺両方」を選ぶと、一度に全て検索ができ大変便利です。プレミアム会員限定の機能となります。登録は
こちら。