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基本情報
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住所 |
埼玉県久喜市栗橋東3-14-14 |
五畿八道 令制国 |
東海道 下総 |
アクセス |
JR宇都宮線栗橋 徒歩10分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0480520361 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
真宗大谷派 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
葛飾郡栗橋宿
顯正寺 淨土眞宗京都東本願寺末 幡谷山破邪院ト號ス 此寺ハ常陸國幡谷ノ城主幡谷次郞左衞門尉信勝剃髮シテ圓空ト號シ同所光念寺ト云天台宗ノ寺ニ住ス 其頃親鸞上人同國稻田ニアリ圓空夢ノ吿ニヨリテ上人ヲタツネユキ隨身シテ唯信ト改メ幡谷ニカヘリ光念寺ヲ一向宗ノ道場トス 其後兵火ニカヽリテ衰微セリ 然ルニ下總國中田新宿村藤ノ森ト云所ニ聖德太子ノ刻メル阿彌陀ヲ安セル堂アリ 靈驗アラタナレトモサセル堂宇ノイトナミモナケレハ 則光念寺ヲコヽニ移シ幡谷山破邪院顯正寺ト號シ ソノ阿彌陀ヲ本尊トス 然ルニ當村名主先祖池田鴨之助信仰ノアマリ當所ヘ引移セリト云 サレトモ下總國中田ニモ今其舊跡ニ顯正寺トテハツカノ庵室ノコレリ 唯信坊ハ弘安二年三月十一日寂ス 中興開山利圓寬永十九年二月十八日寂 其後古河城主松平周防守石州濱田ヘ國替ノトキ時ノ住僧歸依ニヨリ石州ヘツレユキ一寺ヲ建立シ是ヲモ顯正寺ト稱ト云
境内掲示板
久喜市指定有形文化財(彫刻) 木造阿弥陀如来立像
指定年月日 昭和五十三年三月二十九日
所在地 久喜市栗橋東三-十四-十四 (顕正寺)
この阿弥陀如来像は、寄木造りの立像で、像高七九センチメートルを測り、鎌倉時代の作といわれている。
玉眼(目玉の部分に水晶をはめ込む)で錆下地に漆箔を塗布、内刳り(木像の内部を刳って空洞にすること)が施され、螺髪(如来の巻毛をかたどった頭髪)を彫り出し、肉髻珠(肉のかたまりのような影)と白毫珠(眉間の中央に生えた白い柔らかい毛)には水晶が装入されている。当時の仏師の技を確認することができる貴重な資料である。
顕正寺は、真宗大谷派東本願寺末にして、幡谷山破邪院顕正寺という。開基は、常陸の国幡谷の城主、幡谷次郎左衛門尉信勝である。
信勝は、水戸城より三〇キロメートル南の地に城郭を構えて居住していたが、出家して親鸞聖人の弟子となり唯信と名を改め同所に光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、同寺はやがて兵火にかかり消失してしまった。
その後下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子作と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置したお堂があったので、ここに引き移り、これを本尊として寺号を幡谷山破邪院顕正寺と称した。十六代善了の時、栗橋町の開発者池田鴨之介の招請によって慶長十九年(一六一四)、寺と阿弥陀如来像とをこの地に移した。
平成二十六年二月十六日
久喜市教育委員会 |
神社・お寺情報 |
くりはし八福神・毘沙門天
境内掲示板
池田鴨之介の墓
久喜市指定史跡 平成三年五月十四日指定
池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(一五九六~一六一四)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また、下総国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(一六四八)十二月九日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。
平成十九年三月 久喜市教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/12/27 21:30:23
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