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★★★★ 参拝日:2018年5月1日 00:00
★★★ 参拝日:2024年7月13日 00:00
国指定重要文化財の本殿はとても大きく、鳥居や楼門などもとても立派です。 御朱印は社務所にて拝受。
★★★★ 参拝日:2019年7月16日 12:20
参拝日:2024年11月23日 00:00
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住所 | 福島県いわき市平字八幡小路84 |
五畿八道 令制国 |
東山道 陸奥 |
アクセス | JR常磐線いわき 徒歩11分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0246-21-2444 |
FAX番号 | 0246-21-2470 |
公式サイトURL | http://www.noteplan.net/8man/index.htm |
御祭神 | 品陀別命、息長帯姫命、比賣神 |
創建・建立 | 康平6年(1063年) |
旧社格 | 県社 |
由来 | 社伝によれば、康平6年(1063)源頼義が奥州合戦(前九年の役)出征の時、京都石清水八幡宮を戦勝祈願のため勧請したという。その後文治2年(1186)関東御領好嶋荘の総社として、源頼朝の命により本社石清水より御正躰を奉じて、赤目崎見物岡へ奉祀した。元久元年(1204)火災に遭い、社地を飯野平に移して二位禅尼北条政子が本願となって社殿を造営。建永元年(1206)に遷宮した。宝治元年(1247)時の執権北条時頼は、幕府政所執事伊賀光宗(宮司飯野家の祖)を好嶋西荘の預所に任命した。以後代々預所職と神主職を兼ね、現宮司飯野光世にいたる。
爾来星霜を経て、南北朝の騒乱は当社にも及び、兵火の災に遭い社殿を焼失。建武2年(1335)足利尊氏に訴願して、好嶋荘地頭衆に命じ修復させた。この間、建暦元年(1211)御浜出の神事(潮垢離)、貞和2年(1346)放生会における流鏑馬の神事が行われるなど、数多くの祭礼行事がととのった。 室町時代には神領の減少が見られたが、菊田・磐崎・磐城・楢葉・標葉の岩城五郡の総社として、岩城家を始め一般庶民からも厚い信仰を受けた。特に岩城家は数度にわたって所領を寄進し、天文20年(1551)岩城重隆は瓦鐘を奉納した。 社殿は慶長19年(1614)火災に遭い、元和2年(1616)に再建された。当初は前殿付き流れ造りであったが、延宝2年(1674)の大改修で桁行三間梁間三間のこけら葺入母屋造りとなり、幣殿・拝殿も造立された。 幕府から神領として四百石の朱印地が与えられ、歴代の磐城平藩主も五十石の土地を寄進するなど、篤い崇敬によって護持されてきた。本地垂迹の説によれば、八幡大菩薩の本地仏は阿弥陀如来という。そのため、境内には武内社、春日社、白旗社などの末社の他、阿弥陀堂、釈迦堂、地蔵堂、十王堂、鐘楼などの佛堂が立ち並んでいた。さらに境域を取り囲むように、周辺には16の供僧寺が軒を並べて連なり、ひときわ荘厳さを加えていた。 宮司飯野家のもとで、社家32人、神子8人、真言宗16ヶ寺の供僧たちが奉仕していた。明治初年の神仏分離令により、供僧寺とともに佛堂施設も除かれた。 明治12年、県社に列せられた。明治6年、宮号の使用が禁止された後は飯野八幡神社と称していたが、昭和36年に飯野八幡宮の古称に復した。 |
神社・お寺情報 | ■摂末社
摂社:若宮八幡神社(御祭神:大鷦鷯命(仁徳天皇)) 末社:武内社 (御祭神:武内宿禰公) 末社:白旗社 (御祭神:源頼朝公) 末社:春日社 (御祭神:天児屋根命) 末社:愛宕社 (御祭神:軻遇突知命) 末社:事代主社 (御祭神:事代主命) |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 細左三つ巴 |
更新情報 | 【
最終
更新者】PLUTONIAN 【 最終 更新日時】2024/08/25 20:57:09 |