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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県熊谷市平戸611 |
五畿八道 令制国 |
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アクセス |
秩父本線ソシオ流通センター 徒歩19分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
埼玉郡平戶村
源宗寺 淨土宗足立郡鴻巢宿勝願寺末藤井山ト號ス開山源宗寂年ヲ傳ヘス開基ヲ藤井雅樂助ト云法名正山善心寬永七年六月三日卒スコノ人ノコトハ外ニキクコトナシ山號寺號ハ開山開基名ヲ用ヒシコトシラル本尊藥師觀音ノ二像ヲ安ス共ニ開山源宗ノ作ナリト云
境内掲示板
熊谷市指定有形文化財·彫刻
「木彫大仏坐像(平戸の大仏)」 と源宗寺本堂
「木彫大仏坐像」の概要
源宗寺本堂に安置されている熊谷市指定有形文化財・彫刻「木彫大仏坐像」 は、江戸時代中期に制作された「薬師如来坐像」(高さ3.48m)及び「観世音菩薩坐像」(高さ3.93m)の二体である。木造寄木造としては埼玉県内最大規模で、全国的にも珍しい。所在する平戸の地名を冠して「平戸の大仏」と称されている。昭和29年(1954)11月3日に熊谷市の有形文化財に指定された。
仏像は内陣の蓮華座上に祀られ、向かって右側が「薬師如来坐像」、左側が「観世音菩薩坐像」 である。
薬師如来坐像は禅定印に手を結び、令和の改修時点では薬壷は無かった。また、観世音菩薩坐像は左手に持つ蓮華が失われているが、両像とも全体的な造形美が維持されている。昭和30年頃に確認された堂内の棟札によると、仏像制作に関しては仏師である頓誉宗円と江戸弥兵衛が担い、漆塗り金箔押しを塗師である中西村の喜平と沼黒村の太兵衛が力量を発揮したと伝わる。令和3年(2021)、薬師如来の内部から「寛文3年(1663)」「仏師松田庄兵衛正重」の製作銘が発見された。
薬師如来坐像の胎内に収められていたとされる「秘伝書」は、神経痛などの治療薬として特に周知され、昭和40年頃までこれを求める人々が多く来訪した。また、目の治療薬を販売していたとの伝承も残る。
源宗寺本堂の概要
源宗寺は現在の鴻巣市に所在する勝願寺の流れをくむ寺院で、江戸時代以降の管理を担った藤井家が所有する「源宗寺過去帳」によると、祖先の藤井雅楽之助によって開基され、源宗大法師が開山したとされる。官や当時の権力者による支援を受けずに建立を果たした私寺として知られ、江戸時代には近村の人々を中心に信仰を集めた。
令和の改修事業において判明した基礎の状況から、当初は茅葺屋根であった可能性が高い。これを前身の本堂として寛文2年(1662)に勝願寺の第一四世玄誉上人による一万日念仏供養が成されたと伝わる。その際に本尊となる二体仏像の制作が進められたことが推定される。以降、正徳3年(1713)に大仏は損傷し、近隣村々の援助を受けて修復されたが、寛保2年(1742) 8月の大洪水では再び二体の大仏は破損したとされている。その後、第八世喚誉上人が本堂を瓦葺にするなどの再建を行い、大仏の修復にも努めたと伝わる。
江戸時代後期の源宗寺は、僧侶を配置しなかったため、近隣の久下にある東竹院が仏事を担い、檀家組織の護持会が今日まで維持管理を続けてきた。そして、時を経て、建物全体の老朽化が著しくなる中、「源宗寺本堂保存修理委員会」が発足し、令和の改修事業の実施へと結びついたのである。
令和3年3月 熊谷市教育委員会 |
神社・お寺情報 |
境内掲示柱
熊谷市指定有形文化財
木彫大仏坐像(平戸の大仏)昭和二十九年十一月三日指定
「木彫大仏坐像」 藤井山源宗寺の本尊で、江戸時代中期頃に造立された木彫の「観音菩薩」と「薬師如来」の二体の坐像。「平戸の大仏」として知られる。
平成二十七年十二月 熊谷市教育委員会 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/05/05 05:26:01
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