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★★★ 参拝日:2025年6月26日 15:44
🈶御朱印有ります。寺務所で、書置きに日付を入れて下さいます。志納料500円。神仏習合のお寺で、境内にある水天宮の御朱印も併せて頂きました。私は御朱印帳を寺院と神社で分けており、西廣寺の御朱印は寺院用の御朱印帳に貼り付け、水天宮の御朱印は神社用の御朱印帳に貼り付けました。 境内には、水天宮の他に仰向け地蔵という上を向いて寝かされたお地蔵さんや太子堂、鎮守権現堂などたくさんのお堂があります。
参拝日:2021年3月27日 10:20
写経を納めさせていただきました
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 兵庫県西宮市段上町3-2-3 |
五畿八道 令制国 |
畿内 摂津 |
アクセス | 阪急今津線甲東園 徒歩8分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0798510590 |
FAX番号 | 0798516553 |
公式サイトURL | https://suitenguusaikoji.wordpress.com/ |
御本尊 | 大日如来 |
宗派 | 高野山真言宗 |
創建・建立 | 1785年(天明5年)3月 |
由来 | 西廣寺は、1200年余前、弘法大師空海により、阿弥陀如来を本尊として創建された寺院である。創建以前より、地主の神として、大海の龍王が鎮まっていらっしゃった。 当時は、海岸線が、当山の南に位置していたため、村の民は、漁に出る航海の安全・大漁等の祈願をし、平安期より、神佛習合の寺院であった。 しかしながら、時下り、戦国時代天正六年(一五七八年)十一月、荒木村重の乱が起き、翌七年、信長軍により本尊・諸堂・古文書等全て廃滅された。 夫れ以後、元禄年間まで、百二十年荒廃に至る。 その後、中興の祖として、元禄十一年(一六九八年)に、宥筭法印により、備前国庄田山朝日寺大塔の本尊大日如来を当山に遷し、再建された。 近年になり、大東亜戦争の昭和二〇年(一九四五年)六月十五日の空襲により元禄十四年(千七百一年)建立された建造物は悉く焼失され、困窮を窮めるも、戦後の復興と共に、昭和三十四年(一九五九年)再建されたが、平成七年(一九九五年)一月十七日に、阪神淡路大震災により、本堂・山門全壊に至り、境内は、瓦礫の山となった。再度困窮を窮めるも、平成十四年(二〇〇二年)再建。現在に至る。 ■延命(水子)地蔵尊について 寶暦八戊寅年(一七五八年)三月に建立。現在の地蔵堂は、昭和五十九年(一九八四年)再建されたものである。 当時、人々の生活は、大変困窮し、特に子供の死亡率が大変高い時代で、その上、飢饉に見舞われると、子供を産んでも、育てる事の難しさに絶望し、妊娠すれば、故意に流産させたり、生まれた子供であっても、すぐに間引きされるのが常であった。この様な悲惨な生活の中より、悲願として、育てる子供は、無病息災・無事成長を祈り、死なせてしまった子供は、分からないように弔うことができ、そして、生活苦に喘ぐ、人々の数々の願いを成就していただきたい、と建立されたのが、この地蔵尊である。 古来より、「延命地蔵尊・子授け地蔵尊・子育て地蔵尊・水子地蔵尊」等と崇められている。 ■仰向け地蔵尊 自然石の地蔵菩薩は、仰向け地蔵尊と呼び、明治三十五年(一九〇二年)当山中興第九代、役信和尚が、丹波行脚の折、夕闇の河原で光輝く物を見つけ、近寄って見ると、風雨増水にさらされ、痛々しい御姿の石仏でありました。そこで、当山にて御奉祀しようと思われ、この石仏を背負ったところ、不思議にも容易にお運びすることが出来、当山に安置されることとなった。それから数日後、役信和尚の夢枕に『我を仰向け地蔵と呼ぶがよい。願いがあれば背中を撫でて頼むがよい。身体の痛いところ、悪いところがあれば、背撫でしたその手でそこを撫でるがよい。』とお告げになり、その後、諸方行脚の折、人々にこれを説かれ、参拝される方も多く、『仰向け地蔵信仰』として崇められ、多くの方がご利益を戴かれることとなった。 |
神社・お寺情報 | 境内には水天宮が併祀され、清荒神清澄寺、門戸厄神東光寺等と並ぶ、典型的な北摂地域の神仏習合寺院の一つである。 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】ととるし 【 最終 更新日時】2025/06/26 20:38:56 |