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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県本庄市久々宇172 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR高崎線本庄 徒歩24分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
0495-21-2066 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
字迦之御魂命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内掲示板
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
稲荷神社御由緒
本庄市久々宇一七二
▢縁起
鎮座地の久々字は、元来は上野国(現群馬県)に属していたが、烏川の変流によって寛永年問(一六二四~四四)から武蔵国に所属するようになった。この辺りは、中世には群馬県伊勢崎市を本拠にする那波一族の流れを汲む久々宇氏の在所であり、天正十年(一五八二)の『成田氏分限帳』にも「久々宇大和元昌」「久々宇八弥」の名が見えるが、度重なる利根川や烏川の氾濫で地形さえも変わっているためか同氏に関する旧跡や伝説など残っていない。
このように、河川の氾濫に悩まされてきた土地柄であったためか、当社の創建にかかわるような資料は現存せず、口碑なども伝わっていない。しかし、祭神が五穀の祖神とされる字迦之御魂命であり、『風土記稿』久々字村の項にも「稲荷社 村の鎮守、村持」と記されているように、古くから村の鎮守として村民が大切に祀ってきたことなどから考えると、村の開発を行った草分けの人々が、村の発展を願って勧請したことに始まるものと推測される。
明治五年には村社となり、同四十年には政府の合祀政策に従って字榎下の無格社皇太神社及びその境内社の琴平神社、字諏訪下の無格社諏訪神社及びその境内社の不二山神社と天神社、字諏訪下の浅間社の六社を合祀した。なお、これらの諸社の跡地は、今では畑となっており、神社のあった痕跡は見られない。
境内碑
稲荷神社由来
当村は元来、上野国に属していたと云われ、那波一族の流れを汲む、久々字氏の在所であり、天正十年(一五八二)の「成田分限帳」に「久々宇大和元昌」、「久々宇八弥」の名が記録されている。しかし、度重なる河川の氾濫に悩まされ寛永年間(一六二四~四四)に烏川変流により武蔵国に属することになったと云う。この様な状況から当社の創建年代は明らかではないが、祭神が「五穀の祖神」とされる「宇迦之御魂 」であり、古くから村の開拓を行った人々が五穀豊穣と村の発展を願って建立し、大切に祀ってきたと推測される
明治五年村社となり同四十年合祀令により字榎下の皇大神宮と琴平神社、字諏訪下の諏訪神社、不二山神社、浅間神社、天神社の合祀した。又、その他の諸社もその時に合祀したと推測される。
又、現在の社殿の建立年代は資料がないので不明であるが平成七年(一九九五)に改修した。大幟は平成二年に再調、平成十七年水道の設置、同二十二年に天手長男大神の幟を再調した。
今年(平成二十四年氏子の賛同を得て大幟竿のアルミポールに改修し、併せて浅間神社、鳥居、末社上屋の修復、諏訪神社、皇大神宮、水神社、琴平神社を新調し先人の徳に感謝し今後の村の発展と平安を願うものである。
平成二十四年九月吉日
稲荷神社宮司 千葉義文
氏子一同
中野勝三郎謹書 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
・祈年祭(四月三日) ・例祭(十一月三日) ・新嘗祭(十二月十日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2025/07/13 05:38:00
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