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基本情報
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住所 |
埼玉県美里町大字下児玉322 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
上越新幹線本庄早稲田 徒歩28分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0495-21-6672 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
・天照大神 ・素盞鳴尊 ・日本武尊 |
創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内掲示板
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
金鑚神社 御由緒
美里町下児玉三二二
□御縁起(歴史)
下児玉は、身馴川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明德元年(一三九〇) の藤原泰治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老大勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市の鑁阿寺が所蔵する永正十年(一五一三)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かつては隣接する小茂田も下児玉の村域内であったことがわかる。
このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。『児玉郡誌』には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身馴川に棲む大蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(一六八九)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。
一方、『風土記稿』下児玉村の項に「金鑚神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、○雷電社○稲荷社○諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。 当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神楽殿を新設した。 |
神社・お寺情報 |
境内碑
下児玉工区圃場整備事業竣功記念碑
下児玉工区は、西は児玉町を境にし、南は身馴川、北は本庄早稲田山にて今れ、美里町の北西部に位置し、南北を農免道路と関越自動車道、東西を県道蛭川・普済寺線がそれぞれ走っている地域である。
用水は身馴いを水源とし、五ヶ村と七分三分で水を引いていた。それに九郷用水の落水を利用していた。干害の時には番水による田植が行われたり、真夜中に採水の番を待つこともしばしばあり、水争いも絶えなかった。
この様な状況下で農業用排水施設及び農業用道路の整備、農用地の改良を目的として、昭和五十八年度に県営美里土地改良事業が具体化し、面積約四十四ヘクタール、組合員八十名、総事業費三億四千六百万円を投じ、昭和六十二年一月換地処分及び登記が完了した。
ここに関係各機関の御指導と組合員一同の理解ある協力により完成し、工区の農業発展を祈念して、この地に碑を建て、永く後世に伝える。
昭和六十二年十二月吉日
美里土地改良区 下児玉工区長 須永太郎 |
例祭日 |
・元旦祭(一月一日) ・春祭り(四月三日) ・大祓(七月二十八日) ・例祭(十月十九日) ・新嘗祭(十二月十五日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2021/09/26 06:07:48
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