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★★★ 参拝日:2022年3月11日 00:00
★★★ 参拝日:2019年5月2日 14:00
駐車場は鳥居から見て左手側。5台くらい。 大きい神社ではないが、住宅街に馴染んだ親しみやすい神社。宮司様も丁寧な方。
★★ 参拝日:2019年4月3日 10:00
城の橋通り沿いにご鎮座。 鳥居も通り沿いになります。 街中のご鎮座ですので、こじんまりとしたお社でしたが、境内は綺麗にお手入れなされていました。 境内無人だったので、少しうろうろしてみますと、裏鳥居から出たところに宮司様宅?を発見。 インターホンを押させていただきましたが、ご不在でした。 駐車場は通り沿い、ご本殿付近にありました。
★★★★★ 参拝日:2024年4月15日 00:00
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住所 | 福井県福井市勝見2丁目1-6 |
五畿八道 令制国 |
北陸道 越前 |
アクセス | JR越美北線福井 徒歩8分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0776-22-7669 |
FAX番号 | 0776-22-8644 |
公式サイトURL | http://www.sirahige-jinja.com/ |
御祭神 | 猿田彦大神 天鈿売命 伊弉冉尊 倉稲魂命 迦具突知尊 |
創建・建立 | 創立の年月不詳 |
旧社格 | 郷社 |
由来 | 創立の年月不詳。社伝によると、延暦年間(782〜806)坂上苅田麿が国司であった頃、深く当社を崇敬して再建したという。これに従えば、当社は奈良時代以前から奉祀されていたものと見えるが詳かではない。また、苅田麿が、榊原源吾なる人物を当社に奉仕させ、その際太刀一口を奉納したという。慶長六年(1601)、越前国主結城(松平)秀康が入国して、当社の由緒を聞き、定紋付の器物を寄進したという。寛永12年(1635)正月、松平忠昌より鏡一面、剣一振の寄進があった。以来代々の国主・藩主が篤く崇敬した。安政2年(1855)福井藩家老、岡部豊後守より備前長船祐定太刀一口が奉納されている。しかし、これらの宝物は、昭和20年7月の戦災ですべて焼失した。当社は、昔洪水の為に社地が崩れ川となり、当時神木のあった地を木渕と名づけているという。この水害によって現在の鎮座地に遷座したとも伝える。木渕の古跡は、現在足羽川の流域右岸、当社より、三丁余りを隔てた通称モクサン渕である。明治8年21月、元敦賀県に於て郷社に列せられ、昭和11年5月、神蟹幣常料供進神社に指定された。戦後の昭和24年に本殿が、同33年5月に拝殿及東鳥居が築造された。昭和40年に社務所、42年に白髭会館、昭和54年に境内周辺の玉垣及南側鳥居が改築された。平成元年4月神楽殿を改築。当社は、式内杉杜郡神社に比定される。杜家は『越前国古今名蹟考』に見える「別當護國山良登院」の子孫で、先述した坂上苅田麿の臣下、榊原源吾を祖とすると伝える。戦前の当神社を知る者で最も印象に残っているのは、何といっても名物の大棒だという。拝殿に向って左手に御神木である夫婦木が互に手を取り合う様に葺えていた。太い所は大人4人でも抱えきれない位の巨木で、雷が落ちてうつろになった所では畳一枚半位敷ける広さで子供達の格好の「かくれんぼう」の場所であった。又多くの刀剣類や橘曙覧等の掛け軸があったが名物の大棒とともにことごとく戦災で焼失した。古くから独特の七夜祭盆踊りがあり8月17日〜23日までの七夜の問、近在近郷から踊の好きな老若男女が集って賑う。昔は踊りの輪が二重、三重にもなり夜遅くまで踊り通した。若者達の社交の場でもあったようだ。又その問特有の「だいずり」と呼ばれる一四日太鼓打ちの名人が多数現れたようだ。この七夜祭の踊りは昔ほどではないが保存会を中心に現在でも音頭に合わせて七日間行われている。又昔より33年毎に一度御開扉を斎行しており次の平成12年(2000年)の御開扉の年には合わせて壱千参百年の式年祭をも計画中で、その記念事業として社殿の改築及び境内の整備、さらに境内社復興のため現在の本殿を充当して、戦前の元の姿に復すべく氏子一同努力中である。 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 例祭 5月17日 |
神紋・寺紋 | 八輪宝 |
更新情報 | 【
最終
更新者】優雅 【 最終 更新日時】2019/05/10 00:05:18 |