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★★★★★ 参拝日:2018年11月12日 00:00
織田信長公のご先祖様・織田家の出身地。 信長公は劔神社の神官の子孫とのことで、織田家の氏神様。 前々からお詣りさせて頂きたかったのですが、やっとお詣りさせて頂けました。 比較的街中のお社ですが、清々しい境内で鎮守の杜も素晴らしく心地良かったです。 建勲神社の御朱印帳に御朱印を頂きました。 オリジナルの御朱印帳もありました。
★★★★ 参拝日:2018年7月14日 00:00
織田信長ゆかりの神社
参拝日:2024年7月13日 00:00
★★★★ 参拝日:2024年3月31日 00:00
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住所 | 福井県丹生郡越前町織田113-1 |
五畿八道 令制国 |
北陸道 越前 |
アクセス | |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0778-36-0404 |
FAX番号 | 0778-36-0902 |
公式サイトURL | http://tsurugi-jinja.jp/ |
御祭神 | 素盞嗚大神(すさのおのおおかみ)
氣比大神 (けひのおおかみ) 忍熊王 (おしくまのみこ) |
創建・建立 | |
旧社格 | 国幣小社 |
由来 | 創立の年月不詳。社伝の一説に、仲哀天皇の第二皇子忍熊王(おしくまおう)は、淡海国(滋賀県)瀬田の渡りより越の道の口である角鹿(敦賀)においでになった。その後気比の地より軍船で北上し宇見浦(越前町)に着かれた。この頃丹生山地には悪賊がはびこり住民を悩まし続けていたので、皇子はこれを憐み賊徒討伐に向われた。賊徒は玉川の岩窟にたてこもり激しく抵抗し従わなかった。海蝕崖の上から射下す矢玉に皇子の軍は苦戦を重ねたが、ようやく丹生山地の山中まで追いつめた。しかし、なお、賊徒の反撃は激しさを増し、かえって皇子の身辺も危くなって来た。辛うじて、老樹の朽穴に憩われたが、疲労のあまり仮眠された夢枕に「吾れ今、汝に霊劔を授けん、是を斎き奉らば、直ちに平ぐ事を得ん。吾は素蓋鳴尊なり」と告げられた。夢さめて、山申を行かれると伊部臣(いべおみ)と出会われ、伊部臣から皇子に神劔を奉った。皇子は、力を得られて、賊徒を討伐された。丹生の地に平和が戻り安住の地となった。皇子は、社殿を建て、神劔を素蓋鳴尊の御霊代(みたましろ)として鎮め奉り祭祀した。その後、皇子は、郷民に産業を教え善政をされたが年若くして没せられた。郷民はその恩沢に感侃しつ・深く悲しみ御祖の神として主神に配し祀り素蓋鳴尊・忍熊王、二柱一社の劔大明神と崇めた。また皇子の父神を織田神社に祀り気比大神と仰いだ。神功皇后摂政13年(400年頃)織田の地に遷座、その後間もない頃誉田別命(応神天皇)が角鹿に行啓の際使臣を遣わして奉寮。光仁天皇は神護景雲4年(770)越前守藤原雄田麿を遣わし銅鐘一口(現国宝)と神馬を奉献し、宝亀2年(771)神階従四位下勲六等に叙せられた。寛平9年(897)12月正二位に叙せられる。建保6年(1218)神領の地織田荘の四至を定め、応永2年(1395)神領地の臨時課役の検断を停止。文政10年(1827)10月伏見宮の御祈願所として諸調度を寄進し天保7年(1836)まで代参があった。また武門にあっては、源平兵乱の頃は社頭の荒廃が激しかったので平重盛は神領三千八百八町を寄附し社殿を造営し復興した。末社の小松社には重盛公が祀ってある。明徳4年(1393)織田荘の地頭藤原信昌は本家妙法院官の令旨を奉じて社殿の興隆を誓い、斯波・朝倉の諾將の尊崇も深く、特に天正の始め織田信長が越前を平定した後、織田明神と深い機縁から杜領の安堵と禁制を令達し杜殿を造営した。柴田勝家の書状に「当社の儀は殿様(織田信長)御氏神の儀……」とある。天正5年(1577)の神領は1489石3斗であった。国守松平秀康を始め尊崇があつく明治維新を迎えた。明治7年11月郷社。同34年11月県社、昭和3年御大典の秋11月10日越前国ニノ宮として国幣小社に列せられた。 |
神社・お寺情報 | 式内社(小)論社
越前国二宮 旧国幣小社 別表神社 |
例祭日 | 例祭 10月9日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】管理者 【 最終 更新日時】2024/10/07 10:16:50 |