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基本情報
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| 住所 |
群馬県富岡市富岡890 |
五畿八道 令制国 |
東山道 上野 |
| アクセス |
上信電鉄上信線上州富岡 徒歩9分 |
| 御朱印授与時間 |
|
| 電話番号 |
0274-62-0809 |
| FAX番号 |
|
| 公式サイトURL |
|
| 御本尊 |
一塔両尊四士 |
| 宗派 |
日蓮宗 |
| 創建・建立 |
慶長3年(1598年) |
| 由来 |
本城寺は慶長3年(1598年)に創立されました。
鎌倉時代に三浦半島を領有していた鎌倉御家人三浦泰村の子石井長勝が深く法華経を信仰していて鎌倉に長勝寺を建立しました。
そして、本城寺を開くにあたり、中心となった檀越は石井吉房(いしいよしふさ)です。吉房は、鎌倉にある長勝寺を開いたとされる石井長勝より十二代を経た子孫です。 現在もその血脈は受け継がれており、石井家は代々本城寺の総代として活躍しています。
石井吉房は関東管領の役職に就いていた上杉氏に属し、上州平井城の家老職として働いていましたが、(1560年)に平井城が厩橋(現 前橋市)に移転となる際、それを機に平井城を離れ、富岡市宮崎に縁を求めて、農家として生活を始めます。
その後、奥平美作守家昌(おくだいらみまさかのかみいえまさ)の許しを得て、富岡市宮崎にお堂を作り、鎌倉長勝寺より長勝院日皆を迎えます。これが本城寺の創設の所以とされています。
寛永2年(1625年)、富岡の新田開発により、本城寺は宮崎から現在地に移転となりました。
その後、幾度か火災の被害に遭う事もありましたが、現在残っている本堂は江戸時代後期の安政元年(1854年)に再建されたものです。鏑七福神の毘沙門天は、当時の住職が再び火災にあわぬようにとの切なる願から毘沙門天を奉祀したと伝えられる。その功徳により、以後厄災もなく平穏な浄土を保っております。
また、毘沙門天は四天王の中でも第一の勢力を持ち、他の三天王を従える所から威光と福徳を授ける尊仏とされる。
鬼子母神は子どもの健康を祈祷することがはじまりで、本城寺境内から仲町通り一帯に露店が軒を連ね、稚児行列が行われます。本来は、日蓮上人の亡くなった法要で御会式といい、11月12日が祭日で、夜御取子の式を行います。御取子は数え年七歳までの子が法華経守護神の鬼子母神の弟子となることで、その健康を祈り加持祈祷するものです。 参詣者は本堂に上がって毒鼓を打って祈祷し、鬼子母神堂前で線香をたき身潔めをします。この縁日には、本城寺境内・外に露店が並び賑わいます。
平成24年(2012年)10月13日に建立された鬼子母神堂には、鬼子母神・十羅刹女像と共に毘沙門天、大黒天をお祀りしています。
本尊は一塔両尊四士で、一塔両尊(日蓮上人が妙法蓮華経(法華経)の仏の世界を文字で表した十界曼荼羅を元にして、その主要な部分を仏像として造形化したもので、宝塔に南無妙法蓮華経と書かれた題目宝塔が中央にあり、その左右に釈迦如来・多宝如来の二仏を配置したもの。題目宝塔と二仏は、一基の須弥壇に配置することが一般的である。)の左右に上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の四菩薩を配置された本尊です。 |
| 神社・お寺情報 |
開基:石井吉房
開山:長勝院日皆
札所:鏑川七福神・毘沙門尊天 |
| 例祭日 |
11月12日:御会式 |
| 神紋・寺紋 |
未登録
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| 更新情報 |
【
最終
更新者】まっきー
【
最終
更新日時】2023/02/26 21:14:20
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