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基本情報
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住所 | 埼玉県さいたま市大宮区大成町2-402 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 埼玉新都市交通伊奈線鉄道博物館 徒歩6分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0486631471 |
FAX番号 | 0486515855 |
公式サイトURL | https://fumonin-saitama.jp/ |
御本尊 | |
宗派 | 曹洞宗 |
創建・建立 | |
由来 | 新編武藏風土記稿
足立郡大成村 普門院 慶安年中寺領十石ノ御朱印ヲ附セラル 曹洞宗上野國白井村雙林寺末 大成山ト號ス 本尊正觀音ヲ安ス 惠心僧都ノ作ナリト云 開山ハ月江和尙ニテ應永三十三年ノ起立トイヘリ 本朝高僧傳云釋正文月江ト號ス 嘗テ尾ノ楞嚴ト武ノ普門トヲ開テ第一世トナリ寬正四年正月二十二日楞嚴寺ニ於テ逝スト 按スルニ岩松氏所藏應安二年ノ文書ニ足立郡大窪鄕云々普門寺ト載タリ 是當寺ノコトニヤ サレト其年代ヲ推ハ當寺起立トハ齟齬セシウヘ普門ヲ寺號トセシナレハキハメテ此寺ノコトヽハ云カタシ モシクハ當寺應安ノ頃既ニ草創アリシヲ應永ニ至リテ月江中興セシヲモテ此時ノ起立トシテ高僧傳ニモシカ記セシニヤ 又寺號ノコトハ後世改メテ院號トセシモ知ヘカラス 此餘大久保村近鄕ニ普門ト稱スル寺院ヲ聞ス 彼文書ノ全文ハ下大久保村ノ條ニ出シタレハ見ルヘシ 開基ハ金子駿河守ナリト云 永享七年八月廿四日卒シ幼公庵壽居士ト謚セシ由寺記ニ載タレトソノ事跡ハスヘテ詳ナラス 又當境內ハカノ駿河守ノ城跡ナリトモイヘリ 今モ東北ノ方ニカラ堀ナソ殘リ住居ノ跡ナル事知ラル 樓門 釋迦文殊普賢十六羅漢ヲ安 鐘樓 元祿二年鑄造ノ鐘ヲカク 白山稻荷辨天合社 雷電社 開山月江禪師墓 文字詳ナラス 開基金子駿河守墓 是モ文字漫滅シテ詳ナラス永享ノ二字ワツカニ讀ヘシ |
神社・お寺情報 | 不許葷酒入山門 寛延二己巳年(1749)
境内掲示板 埼玉県指定文化財 月江正文和尚頂相 指定 昭和三十一年十一月一日指定 所在地 大宮市大成町二~四〇二 所有者 普院門 禅宗では仏法を習得したしるしに、師から弟子へ自分の姿を描いた肖像画を与えることが鎌倉時代から行われました。寺院ではこれを年忌や儀式にかかげ師の人徳をしのび、宗風を慕ったもので、この肖像画を頂相と呼びます。 当院の開山月江正文和尚を描いたこの頂相は、素絹の画面に極彩色で描かれ、顔を少し斜めにむけ、曲彔(法式の際に用いる椅子)に腰かけ右手に払子を持っています。伝えによると和尚自筆の頂相といわれます。厳しい中にもゆとりのある風貌は、徳望の高い和尚の様子をいかんなく描きだしています。材質・描法・彩色などからみて室町時代中期以降の製作と推定されています。 寺誌によると和尚と普門院の開創については、次のように伝えられています。応永三十三年(一四二六)、月江正文和尚は諸国行脚の途中、武蔵一の宮氷川神社で夜を徹して祈願していました。すると一人の老翁があらわれ「和尚の道徳はなはだ堅固である。必ずや仏法の霊験があろう」と言い残し、同じころ氷川神社神主の枕元にもこの老翁があらわれ「今、社の拝殿に一人の高僧がいる。ここより西方に観音堂があるが、そこへ案内し、この地に留まるようにせよ」と言い残して消え去りました。さっそく神主は、和尚を大成村の領主金子駿河守のもとに案内しました。そこで一部始終話したところ、駿河守は大変感動し、また和尚の徳に信仰の念を厚くして、自分が住んでいる大成館を寺にして山号を大成山、寺号を普門院としたということです。 月江正文和尚は山城国の人で、尾張国の楞厳寺・上野国の雙林寺・武蔵国足立郡普門院の開山となり、寛正四年(一四六三)示寂しています。 当院にはこの他、小栗忠政一族の墓、高蒔絵飾棚・チリメンカエデ・タラヨウ・イヌツゲ・キャラが、また境内地全体も大成館跡として大宮市指定文化財となっています。 昭和六十年八月吉祥 大成山普門院 埼玉県教育委員会 大宮市教育委員会 境内掲示板 岡田啓介首相の展墓と記念植樹(槇)解説 私の生涯の思い出として、又小栗上野介顕揚についてこれほど忘れがたいことはない。それはかなり難事業の一つである小栗研究がこれがため大きな刺戟ともなり、又世人が現職の顕官が小栗公の展墓をすると云うことだけで小栗の再検討に眼がそそがれるようになったからだ。 昭和十年六月三十日、蒸暑い曇天だ。昨夜から村の駐在巡査は大宮署の刑事と共に警護のため普門院に詰めた。そして私の知り合いのA警官はこう言った。「和尚さん、とうとう本物になりましたね」と。 実はそれほど世人は小栗上野介と云う人物に対しては或る幕末に於ける怪物ぐらいに思っているらしい。そして又何となく、勤王とか志士とかと云うものに反抗でもして斬られた悪人の様に思っていたらしい。まあこれは社会通念上事実であったのだ。それが一躍現職の首相と逓相それに床次大臣は世間では副総理だと称せられていた。その人が揃って来られたのであるから「いよいよ本物になりましたね」と云われるのも無理もないことだと思う。 午前十時半、首相と逓相とは、斉藤知事の案内で普門院に到着した。懇に小栗上野介の展墓を済ませ、書院で小栗公について色々と語られた。そして私を激励してくれた。本堂で上野介の追善法要が勤修された。首相は講演のあと私に云った。「国家的大偉業の人物を悲惨な最期に終らせたことは誤りであった。今日はお詫びにきた訳です。」 大きな人物になあと私は思った。 阿部道山著「小栗上野介正傅」より 平成三年五月吉祥 普門四十三世徳山道誌 境内掲示板 徳富蘇峰翁夫妻参拝記念手植の松解説 昭和八年五月十日午後であった。 蘇峰翁夫妻は大宮警察署長の案内で小栗家の墓所に参拝に来られた。先生の近世日本国民史は、私も寸暇を倫んで愛読していたので、先生をかうした意味から畏敬していた。蜷川先生から承れば、余り上野介に対しては同情と史的正観を持ていないというお話をきいていたので、実はどうかと思ったが、私は先生と会うのは初めてでもあり、突然なので、挨拶も碌々しなかったが、先生は終始にこ にこしておられた。自分は先生等を小栗家の墓に先導した。 上野介の墓には特に献香黙祷を捧げること暫時、 不幸なる功臣の霊に真心をこめて礼拝された。私はだまって忠政の墓に導いた。先生は 「あっこれが又一の墓ですね、立派です。小栗の始祖忠政の墓、元和二年九月十八日! うん」 感心の体である。「又一の名は家康から貰ったものです。槍の名人でね」私は驚いた。 今まで多くの人と接したが、忠政の墓をこの戒名と年号だけ見て直ちに忠政の墳也と云はれる仁は他になかった。さすがに先生であると敬したわけである。参拝記は、その日の東日夕刊の日々だよりに出たので早速読んだ。この記事を見て初めて上野介首塚と一統の菩提所が明瞭となり各所から思わぬ手紙と激励の意をよせてきた人が沢山あった。 阿部道山著「小栗上野介正傅」より 平成三年五月吉祥 普門四十三世徳山道誌 境内掲示板 大宮二十景 16 歴史と天然記念物がいっぱいの普門院 その昔、室町時代の高僧月江正文和尚に帰依した、このあたりの領主金子駿河守大成公が、自分の屋敷をお寺にしたのが普門院のはじまりと言われています。 本堂左手の墓地には、江戸時代に大成領主だった旗本小栗忠政一族のお墓や、世界で最初に実用的胃カメラを考案した宇治達郎博士のお墓などがあり、歴史や文化を感じさせるスポットとなっています。 また、本堂前のキャラ、客殿の前庭のタラヨウやチリメンカエデは市指定天然記念物で、それぞれの季節ごとに普門院の風景に彩りを添え、秋の境内は黄金色一色に染まります。 墓地碑 大成領主小栗忠政一族の墓 さいたま市指定文化財(史跡) 小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦いで、敵が家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠攻がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした、一番槍にも等しいとその槍を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたので又一(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(一六一六)に亡くなると普門院に葬られた。 忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。代々又一と称し葬地は牛込保善寺である。大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加増され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(一六六一)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。 横須賀製鉄所建設など、近代日本の礎を築いた小栗上野介忠順は、本家政信の子孫であるが、忠政を始祖と崇め、忠政夫妻の眠る普門院に特別の親しみと信頼感を持っていたようである。 忠順は、新政府軍に対する徹底抗戦を主張したため将軍慶喜に疎まれ、慶応四年(一八六八)一月十五日陸軍奉行並兼勘定奉行を罷免されて隠棲を決意、身の危険を感じてか、十九日家宝の、家康から与えらえた信国の槍等を普門院に預けた。二月二十八日土着先に選んだ上州権田村(現高崎市)へ旅立ちの途中、普門院に立ち寄り別れを告げた。閏四月六日朝敵として新政府軍に捕らえられ斬首された。 普門院には忠順の供養塔、招魂碑が建てられている。 昭和六十二年七月吉祥 普門四十三世徳山道誌 境内碑 小栗上野介招魂碑 開國は興國である幕府が開國を断行せるは愛國であった幕府に興國の賢良多し井伊大老安藤閣老を始めとし献身報國我が開國進取の国是は彼等の英断に由りて定められた是れと共に忠誠勤王の者也 特に小栗上野介に在りては最初の遣外使節として〇〇米國に使し國使を全ふし米人の礼讃を博し而して〇〇に欧米文化を研鑽し之を我國に実行し財政貿易殖産外交國防等大本の國策は彼れに由りて創始せられた彼は眞に愛國忠誠の人である 上野介果敢達識封建を廃止して郡縣となすの大略を〇き幕府の責任として之を実現し以て一大文化を帝國に開かしめんと志した当代第一の克〇者たりしこと〇抱負と〇実績とが之を証明する当時の改革者〇〇此の偉人の人物あるを忘み卑怯にも賊名を附して彼を斬殺した是れ不正である 今や天定りて人に勝つ恰も好し小栗家始祖忠政以来參百有餘年の菩提所たる普門院境内に地を卜し檀徒並〇〇の〇〇を以て上野介が功業〇〇の為に〇碑を建つ是れ正義の顕彰である昭和聖代の光輝なるを國民として慶賀せざるものやある 偉人上野介の首級に就ては痛恨〇〇〇在〇らにさること茲に六拾餘年照るに山内法〇秘に傳る史実に〇りて調査点検しやれば当院小栗家墓所内に秘葬しやること疑なし偉人〇〇の意茲に到〇せらる何の幸ぞや 昭和九年四月六日 法學博士蜷川新撰并書 境内掲示板 小栗上野介招魂碑、大砲、機械水雷、錨 解説 小栗家代々の菩提所たる普門院では、幕末の英傑小栗上野介忠順公のため雄大なる招魂碑を建設することになった。勿論檀家と一致協力した結晶であって色々な苦心と努力の跡でもあった。 昭和九年十一月廿五日芽出度く除幕式が挙行せられた。そこで私は熟慮の末ひとり決意をして、翌年十月二十一日左の如き文書を海軍省に提出した。 廃兵器無償下附の件出願 普門院ハ小栗上野介祖先以来三百有餘年ノ菩提所ニシテ曹洞宗ノ名刹ニ有之候。小栗上野介殿ハ幕末ニ於ケル偉人ニシテ殊ニ俗論ヲ排シ横須賀ニ造船所ヲ建設シ以テ国防海軍ノ基礎ニ偉大ナル功績ヲ貽シタルモノニ候。吾人ハ此ノ高大ナル気魄ト甚深ナル忠誠ヲ後昆ニ傅フル為メ普門院境内ニ地ヲトシ小栗上野介招魂碑ヲ建立シ除幕式ヲ挙行シタルハ實ニ昭和九年十一月二十五日ニ有之候。当日ハ岡田総理大臣閣下ヲ初メトシテ海軍顕官ノ御臨席並ニ祝辞ヲ賜リタルハ最モ光栄トスル所ニ候。護国興禅ハ本宗ノ命脈ニシテ小栗上野介我ガ海軍ニイタシタル功績ハ萬世不朽ニシテ碑前ニ廃兵器ヲ設置スル事ヲ得バ意義深キコトニシテ碑ヲ拝スル者皆襟ヲ正シ我ガ海軍ノ思慮ヲ感得スルハ勿論、海軍思想普及上効果大ナルコトヲ信ジ候條、特別御詮議ニ依リ御下附願上候也。 これに対し、海軍大臣は、調査協議の上愈々小栗上野介は功臣也、海軍功労者也と 断ぜられ、横須賀鎭守府司令長官に訓令を発し、碑前に錨と大砲と機雷各一個宛を下附するようにと命を下した。 そこで該長官から埼玉縣廳を通じ、村役場を経て、三月十日私に海軍省公達があったわけだ。 小栗上野介公の汚名は已に前記した事実において雪がれているわけである。 私は先年小栗家の子孫である小栗貞雄翁から直接聞いた話であるが、 「もし世は何んとしても、上野介の子孫として、少しの思い残す所はありません。然かも小栗の心血を注いだあの軍港を見渡して永遠に小栗の胸像が立てられた。又畏くも皇后陛下様の御下賜金を拝受し、更に小栗の写真が宮中に於て、皇后陛下様の御台覧の光栄に浴し、実に忝けない極みであります。」 とあのときの翁の感激は今なお私の眼底に彷彿と残っている。 この一事こそ、私の生涯を通じてどうしても消え得ない 阿部道山著「小栗上野介正傳」より 昭和六十二年七月吉祥 普門四十三世徳山道誌 |
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更新情報 | 【
最終
更新者】FÙKU 【 最終 更新日時】2025/03/13 06:24:29 |