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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 和歌山県和歌山市片岡町2丁目9番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス | JR紀勢本線和歌山市 徒歩19分 |
御朱印授与時間 | 09:00〜19:00 |
電話番号 | 073-422-6576 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://www.jtw.zaq.ne.jp/okanomiya/ |
御祭神 | 道臣命 大伴佐氐比古命(狭手彦命) |
創建・建立 | |
旧社格 | 県社 |
由来 | 刺田比古神社は延喜式内社、和歌山城の氏神、吉宗公拾い親の神社である。岡(現在の和歌山市広瀬、大新、城北、吹上、芦原、新南地区)の産土神として、「岡の宮」の名で知られている。神武御東征に御活躍の道臣命(大伴氏の祖先神)、百済救済の御武功で知られる大伴佐比古命をお祀りしている。佐比古命(狭手彦命)は百済救済の武功により、道臣命の出身地たる岡の里の地を授かったという。『続日本紀』にも片岡の里出身の大伴氏が登場し、昭和7年には境内南西側で岡の里古墳(古墳時代後期)が発見されたことからも、その由緒をうかがえる。一説には聖武天皇岡の東離宮跡とも伝えられる。佐比古命より世々岡の里を采邑し、佐比古二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏の発祥であるこの地に祖神、祖霊を祭祀した。里人はこの地を開始経営し給うた神として、その神徳を仰ぎ産土神として国主ノ神、大国主神と尊称し崇敬した。大伴武持二十八世の孫岡本信濃守武秀が始めて岡山(現和歌山市)に城を築くと、神田若干を寄付するなど代々城の氏神として厚く崇敬した。里人の崇敬も厚く社殿等頗る壮観を極めたが、南北朝の騒乱など度重なる兵乱に遭い、社殿も荒廃するに至った。嘉吉年中に氏子等が再興し、国主(くず)神社と呼び崇敬した。天正年中、豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎮護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。豊臣秀長は城代桑山修理亮重晴に社殿修造を命じ、岡本左馬助家長を神官とした。文禄3年、神社を本来の鎮座地たる岡の里(現在の御鎮座地)に移した。その後浅野幸長が本国を領するも、本城鎮護の神として変わらず尊宗した。元和年中、徳川南龍(頼宣)公が紀州入城すると、城の守護神たるこの神社を崇敬し、社殿を修築し社宝を奉献した。更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。二代城主清渓(光貞)公以後は産土神として崇敬し寛永年中より延宝年中、大小社殿を造営し、松生院別当職を解き唯一神社となし、新たに神官邸を社の傍に寄進して奉仕を厳にした。其の後名草郡岡村にて社領を寄付され、神官岡本長諄を従五位下周防守に叙任された。殊に八代将軍有徳(吉宗)公御誕生の時、神主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗公より特別に崇敬をうけた。吉宗公は将軍就任に際し開運出世の神と敬神され、享保年中名草郡田尻村(現和歌山市田尻)に200石の朱印地を寄付し、神社境内の殺生を禁じ、黄金装飾の太刀壱振(国宝)、神馬1頭を献じ、永く国家安泰の祈願社とした。これより年に壱万度の国家安泰の祓を命ぜられ、神主岡本長刻より代々3年に1度上東し将軍に拝謁し、代替、継目等のさいは江戸にて拝謁する例となった。よって氏子の崇敬益々厚く神徳弥栄にて、明治6年4月に県社に列せられた。昭和20年7月9日の戦災に遭うも、御神霊は安泰であった。その後氏子等の敬神により現在の復興となり、崇信日々に広く神威赫々である。 |
神社・お寺情報 | 式内社 刺田比古神社の比定社 |
例祭日 | 10月17日 |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】神追人 【 最終 更新日時】2021/07/25 05:22:36 |