みんなの御朱印
書き置きのみ、お賽銭箱に初穂料(300円)を入れて、
レターケースから取り出す仕組み。釣銭が発生せぬよう
小銭のご用意を。
(銀ムツさん) 10 御朱印日:2024年11月17日 00:00 |
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(ひささん)
7 御朱印日:2024年11月16日 00:00 |
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(ソーマ@東方聖地さん)
14 御朱印日:2024年11月9日 16:34 |
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(さかなさん)
6 御朱印日:2024年10月27日 15:31 |
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15分くらい歩いた川越八幡宮で直書き有り¥500
(仙波東照宮近くのカフェANDONで書置き¥300)
(32hiroさん) 7 御朱印日:2024年10月21日 12:40 |
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仙波東照宮近くのカフェANDONで書置き¥300
(15分くらい歩いた川越八幡宮で直書き有り¥500)
(32hiroさん) 7 御朱印日:2024年10月21日 12:40 |
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(KeeeeNさん)
7 御朱印日:2024年10月14日 11:12 |
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(yuwakaさん)
29 御朱印日:2024年9月21日 00:00 |
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(ヤマさん)
29 御朱印日:2024年9月4日 00:00 |
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(ヤマさん)
15 御朱印日:2024年9月4日 00:00 |
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住所 | 埼玉県川越市小仙波町1-21-1 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 西武新宿線本川越 徒歩10分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 049-224-3431 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.kawagoe-hachimangu.net/%E8%A4%87%E8%A3%BD-%E7%A5%9E%E5%89%8D%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F-3 |
御祭神 | 徳川家康公 |
創建・建立 | 1617(元和3)年 |
旧社格 | 無格社 |
由来 | 境内掲示板
重要文化財・建造物 仙波 東照宮 徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和三年(一六一七)三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永十年(一六三三)一月この地に創建した。その後寛永十五年(一六三八) 正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。 なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会 境内碑 仙波東照宮沿革碑 元文部大臣前早稲田大學總長貴族院議員法學博士高田早苗題額 當社は元和三丁巳年八月十六日喜多院中興の祖二十七世天海僧正の勧請なり 抑々徳川家康元和二丙辰年四月十七日○壽 "七十五歳を以て駿府城に薨するや二代徳川秀忠遺命に從ひ初め駿州久能山に神葬せしが同三年三月十五日更めて野州日光 " 山に遷殯するに當り富士山麓の善徳寺に初宿して三嶋小田原中原府中等に繼宿し同二十三日靈柩喜多院大堂に着御す逗留 此に四日其の間天海の論議法問衆僧の法蕐讀誦あり蓋し仙波者是三祖之起立慧心一流之嫡家也於寺院者天下無雙之靈地也 とあれば家康數々放鷹を行ひて川越に次し仙波を過りて天海と會談するを喜びたればならん流石天海も之に感激し公の像 ら彫作して喜多院大堂に分祀崇敬せしが後寛永十癸酉年社地を新に北に相し高さ五間の子丘を築き本社間口六尺奥行八尺 拜殿三間四方中間に石之間を置き蕐表等を造營して奉還す此の工正月十六日起工十一月十三日竣工同十六日神體を内陣に 安置す其の神體は甲冑を着し槍を小脇に掻込みて威風堂々駿馬に打騎れる大将軍身の權現なり是れ即ち天界の發意に因り 常侍奉仕の誠を盡さんが爲我今仙波喜多院に於ては敢て尋常の神體に衆ることなく應に武徳を表はし兵威を現したる大将 軍身の權化に據るこそ東照大權現の真髄にして靈威の發源なれと然るに同十五戊寅年正月二十八日辰刻隣郷川越街に大火 あり天海が多年心血を注ぎたる喜多院の再興は慶長十七年以來の經營なりしが大堂慈慧堂大寝殿本坊庫裡輪藏東南北の大 門總門より日吉山王大權現東照大權現に至るまで盡く延焼一宇を留めず是に於て三代徳川家光直に喜多院及び東照宮の再 建を計り川越城主堀田正盛を造營奉行に命じ先づ東照宮の廟社より始む此に於て本社幣殿拜殿唐門玉垣随身門五十段の石 階成り面目一新偉觀前にも勝りたり此の工實に六月一日起工同十七年五月二十日竣工而して拜殿に揚ぐる三十六歌仙額は 家光特に岩佐又兵衛勝以に命じて寛永十七庚辰年六月十七年畫かしめ幣殿に揚くる加納探幽筆上繪鷹十二聰額は寛永十四 丁丑年九月十七日阿部對馬守重次の寄進にして鳥居石燈籠水屋等は各川越城主の寄進なり爾来幕府直營の社殿となりたれ ども祭資未だ備らざりしを以て寛文元辛丑年正月喜多院二十九世周海僧正は川越城主松平信綱を介して以聞祭田を請ふ同 年三月四代家綱隣郷大仙波村二百石を賜ふ爾後屢々修理を加へられしが就中弘化四丁未年最も大工事たりしといふ而して 明治の初神佛區別の令に依り喜多院の神務執行を解きて神官之に代り社領を奉還して逓減録を賜はる斯くて明治三十九年 四月十九日歌仙額國寶に指定せらるゝや忽ち世上注目の的となり參拜者の數を増せしが社殿は年と共に朽廢し中にも外廊 の玉垣最も甚し乃ち昭和六年八月起工奥州白河産石材を以て玉垣延長七十八間有餘の改築を初め石階の改修參道の舗装等 に及び同八年八月竣功す次で昭和十年九月境外西方より南東に亙る一帶の民有地を買収し境内を擴張す即ち舊境内三千三 百十九坪に加ふるに新に七百九十六坪八合一勺を以てしたれば境内總て四千百十五坪八合一勺なり矣 昭和十一丙子年一月 澤新平撰併書 新撰武藏風土記稿 入間郡小仙波村 東照宮 御宮草創ノ起ハ慈眼大師ノ發願ニシテ寬永十年正月十三日ヨリ經營ヲ始メ山ヲ築クコト高五間宮作成テ鎭座シ奉レリ 然ニ同十五年祝融ニ逢テ烏有トナル 依テ大猷院殿命ヲ河越城主堀田加賀守正盛ニ下シ給ヒ改造ノ功ヲ起シテ莊嚴善美ヲ盡セリ 是ヨリ以來御造營コトニ官ヨリ修理セラル 寬永十七年ノ棟札今ニ存セリ 御願主 征夷大將軍源家光公 御奉行堀田加賀守從四位下藤原正盛 奉造立仙波星野山東照大權現御社一宇所 御導師 山門三院執行探題法印大僧正天海 御大工 木原木工允 藤原義久 本宮 三間ニ四間玉籬ヲ繞ラス七間四方外ニ柵ヲ設ク 幣殿 二間四方格天井中央ニ金幣ヲ植左右ニ天狗狛狗ヲ安ス 皆金ヲ押ス 又金旗ヲ植竿頭ニ金龍ヲ冠ラシム 楣間ニ額十二ヲ揚ク皆鷹ヲ畫ケリ 是寬永十四年九月十七日阿部對馬守正次獻スト云 日々幣前ニ神酒芳茗等ヲ供シ奉レリ 拜殿 二間ニ三間左方ニ額アリ歌仙三十六人ノ像ヲエカク 銅燈籠 二基河越城主獻セリ下同 石燈籠 二十基 天狗狛狗 石ニテ作ル根來出雲守某獻スル處也 石水盤 寬永十四年佐久間右近將監某獻ス 石階 廣二間餘級數五十年々正月七月十六日コトニ群參ノ者此下ニテ拜スト云フ 御膳坂 左方ニアリ六十八級御膳ヲ捧ル者又御別當參拜ノ時此坂ヨリ登ル 石鳥居 寬永十五年堀田加賀守紀正盛獻ス 御供所 石階下左方ニアリ 石橋 御構ヲ圍繞セル溝ニ架ス長五間 隨身門 二間ニ三間 豐磐間土奇磐間戶ノ二尊ヲ安ス 東照大權現ノ扁額ハ後水尾院宸翰ナリ 本地堂 東照宮ノ御本地佛ヲ安ス 七間四方ナリ 或ハ大堂トモ號ス 慶長十七年御建立彌陀ヲ安ス 明年十月駐駕論議御聽聞アリシハ此所ナラント傳ヘリ(駿府記曰廿九日巳刻於仙波南光坊論議大御所御參詣題妙覺位有入重玄門之儀歟精義南光坊講師春日岡月山寺西蓮寺法輪寺中院眞光寺出座申刻訖川越御旅館歸御云云)後ニ大師彫刻ノ藥師ヲ安シ傍ニ十二神ヲモ置 日光遷御ノ時神柩ヲ安セシ所ナリ 常時柩前ニテ法會論議等執行セシトナリ 今四月十七日御祭禮六月四日傳敎會十一月廿四日天台會ヲ行フ 以上ヲ三季講ト號ス 別當喜多院 以降喜多院を参照 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 8月17日 例大祭 |
神紋・寺紋 | 徳川葵 |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/07/17 21:32:33 |