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🈶御朱印あります。書き置きでした。厄除けのご利益があるらしいです。
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 大阪府松原市天美我堂4−11−20 |
五畿八道 令制国 |
畿内 河内 |
アクセス | 地下鉄御堂筋線北花田駅1号出口東へ500m |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 072−335−3334 |
FAX番号 | 072−335−3334 |
公式サイトURL | なし |
御祭神 | 品陀別命(ほんだわけのみこと) |
創建・建立 | 1680年 |
旧社格 | |
由来 | 江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。 明治初年に八幡神社と称した後、大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。 堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時代から昭和初期にかけて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残っており、貴重な民俗資料といえるでしょう。 江戸時代まで、境内には黄蘗宗の神宮寺があり、社僧が奉仕していました。現在の八幡宮は昭和53年の再建ですが、それまで旧社務所には神宮寺の仏間が残されていました。神仏習合の信仰が息づいていたのです。 神宮寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、その仏像や什物は他所に移されました。このうち、本尊であった阿弥陀如来座像は近くの天美我堂7丁目の善正寺(「歴史ウォーク」47)に納められたのです。 善正寺の本尊は、鎌倉時代の阿弥陀如来立像です。その左側に、旧神宮寺本尊の阿弥陀如来座像が客仏として安置されています。像高は61.5センチで、作風は中国・宋風の影響をうけて重厚な感じがします。しかし、それ以上に同座像が注目されるのは、像裏に次のような墨書銘があるからです。 本尊 阿弥陀如来 神宮寺置之 永和三丁巳年 施主 成田誓玄居士 銘文から、成田氏が永和3年(1377)に神宮寺の本尊として、阿弥陀如来像を寄進したことがわかります。 『この「永和」は、南北朝動乱期の足利氏による北朝の年号です。室町幕府の3代将軍足利義満が京都・室町に「花の御所」を造営したのは、その前年の永和2年でした。 南朝ではなく、北朝年号を使っている理由の1つは、同じ市域に鎌倉末期、幕府の守護所が丹南に置かれるとともに、北朝の丹下氏が西大塚の河内大塚山古墳(丹下城)や岡(松原城)に城郭を築いて勢力をもっていたからでしょうか(「歴史ウォーク」41)。 なお、我堂という地名の由来はこの神宮寺に拠っているかもしれません。 〜松原市のサイトより |
神社・お寺情報 | 開運松原六社のひとつ。 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】ととるし 【 最終 更新日時】2023/09/24 17:08:12 |