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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 埼玉県上尾市五番町14-2 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 埼玉新都市交通伊奈線原市 徒歩4分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0487213201 |
FAX番号 | 0487215356 |
公式サイトURL | https://www.soutonji.jp/ |
御本尊 | |
宗派 | 浄土宗 |
創建・建立 | |
由来 | 境内碑
相頓寺庫裏客殿水盤舎新築記念碑 当山は、永徳2年(西暦1382年)大本山鎌倉光明寺第四世良順上人の開基によるものであります 当寺院は浄土信仰の場であると共に寺子屋としても地域社会に貢献してきた歴史があります 旧庫裏は三百数拾年の永きに亘る建築物でありました 茲に 歴代上人 浄土宗三上人御遠忌の年にあたり奉讃を記念してこの佛恩にお酬する道を求め檀信徒客位並びに特信者の寄進により竣工をみたものであります 合掌 昭和62年7月吉日 相頓寺住職 㐧三十世 大誉正美代 新編武藏風土記稿 足立郡原市村 相頓寺 淨土宗鴻巢宿勝願寺末快樂山安養院ト號ス當寺ハ永德二年ノ草創ニテ開山ハ本寺第四世圓蓮社聖滿良順ト云應永十六年五月廿六日示寂ス本尊三尊ノ彌陀ヲ安ス惠心ノ作ト云外ニ千手觀音ノ木像アリ是ハ西國五番ノ札所河內國藤井寺ノ寫ナリトイフ 太神宮 末社 天神社 稻荷社 疱瘡神社 鐘樓 元祿八年ノ鑄造ニテ銘文アレト考證ニ益ナケレハ取ラス 見生庵迹 何ノ頃カ廢シテ今ハ迹ノミ殘レリ本尊ハ迦羅陀山ノ地藏ナリ本堂ニ移シ置リ |
神社・お寺情報 | 宝篋印塔 延享三丙寅載十一月吉祥日(1746)
境内掲示板 上尾市指定有形文化財 木造阿弥陀如来立像 相頓寺(五番町14-2) 浄土宗相頓寺の本尊で、観音、勢至の両菩薩を脇侍とし、阿弥陀三尊として安置されている。中尊の木造阿弥陀如来は上品下生の来迎印を結び、蓮華座上に立ち、蓮台を持つ観音で、合掌する勢至の両脇侍は、腰をかがめて蓮台上に立っている。浄土来迎思想の隆盛に伴い造像された阿弥陀三尊像である。鎌倉時代後半から末期にかけての頃の作と推定される。この阿弥陀如来立像の像高は93.5cmで、玉眼、寄木造である。頭部内側の墨書銘から万治三(1660)年に京仏師某によって修理されたことがわかる。さらに本像は平成一一(1999)年度に本格修理が行われ、造像当時の姿をほぼ回復した。 上尾市教育委員会 境内掲示板 上尾市指定有形文化財 相頓寺三仏 相頓寺(五番町14-2) 相頓寺三仏は、中尊として木造延命地蔵菩薩半咖像、向かって右に木造閻魔王坐像、左に木造奪衣婆坐像が配置されている。明治二(1869)年に廃寺となった地蔵院から移された像もあるという。地蔵菩薩の総高(蓮台を含む)は136.5cm、像高は95.5cmで、片足を下ろした半咖像である。地蔵菩薩の像内に文禄五(1596)年三月二四日、領主・西尾小左衛門尉(西尾隠岐守)が開眼したとの書付があり、頭部が大きく質素堅牢な作風から、ほぼその頃の造立とみられる。また、光背・台座などは墨書銘から享保七(1722)年、江戸神田の仏師・法橋幸慶らによって製作されたことが分かる。 左右に並ぶ閻魔王坐像、奪衣婆坐像はともに寄木造、像高は閻魔王が109cm、奪衣婆が89.8cmである。作風から推測すると両像とも同時期の作と思われ、江戸時代前期の作とみなされる。近隣ではまれな大型の三仏として貴重である。 上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺絵馬群 相頓寺絵馬群は、奉納されている21点の絵馬であり、この絵馬群の特徴は、地蔵を描いた3点の小絵馬を除く12点が比較的古い時代から連続し、多様な内容を持つ大絵馬なことである。特に延宝八(1680)年の銘を持つ「合戦(仏と鬼)」を描いた絵馬は市内で最古のものである。元禄七(1694)年の銘を持つ「桜に繋馬」の絵馬も含め、これらは県内でも紀念銘のある絵馬として古い部類に属している。このほか、紙に描いたものを絵馬の形に張り合わせた「関羽と張飛」、穴あき銭を貼り付けて五重塔を描いた絵馬など、素材に特徴のある絵馬も含まれている。 上尾市教育委員会 境内掲示板 上尾市指定有形民俗文化財 相頓寺徳本行者六字名号供養塔 相頓寺(五番町14-2) 徳本行者は、宝暦八(1758)年紀州日高郡に生まれ、天明四(1784)年に出家し、近畿・北陸・中部・関東地方各地を巡り、昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。文化一一(1814)年、小石川に一行院が再興された際、中興開山となった。一行院では、庶民に十念を授けるなど教化に努めたが、特に大奥の女中衆で帰依する者が多かったという。文政元(1818)年一〇月六日示寂、享年60歳であった。 徳本の平易な念仏信仰は広く受け入れられて各地に講が結ばれ、その筆跡の六字名号を刻んだ供養塔が各地に造立されている。 角柱の正面には、徳本独特の書体で「南無阿弥陀仏」と六字名号を大書し、脇に「徳本(花押)」とある。 台石正面に「講中」とあることから、念仏講を結んで造立したものであり、右側面の紀年銘は、造立銘ではなく徳本行者の寂年を示している。したがって、供養塔の造立は、それ以降とみることができる。 上尾市内に徳本行者の供養塔は3基残っており、それぞれの地域の信仰の様相を知ることができる貴重な文化財といえる。 上尾市教育委員会 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2023/08/06 18:24:08 |