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(thonglor17さん)
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★★★★
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参拝日:2025年3月8日 08:57
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(RUIさん)
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 105
参拝日:2019年1月20日 00:00
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県入間市中神681 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
西武池袋線仏子 徒歩21分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0429361708 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
豊泉寺
曹洞宗(禅宗)の寺院で、松龍山豊泉寺と称し、本尊に虚空蔵菩薩が安置してある。
創建は、戦国時代、天文元年(一五三二年)と伝えられ、大字木蓮寺瑞泉院の四代目、本室徳源禅師を開山とし、開基は小田原北条氏の家臣豊泉左近将監である。豊泉左近将監は北条氏の命によって金子領の領主となり、関東争乱の際に戦場の露と消えさった父母を悼むとともに、将兵の戦没を深く悲嘆し、ここにその冥福を祈るため、この寺を建てたといわれる。
また、松龍山のいわれは、境内裏一帯が樹齢数百年の古松で龍のような形をしているため、その名を松龍山と唱え、寺名を豊泉寺と称したと伝えられている。
しかし、寛保、延享の時代に火災にあい、一切の古文書をはじめ、貴重な文化財も全部灰燼に帰し、史跡として今何も伝えられていない。
梵鐘は、寛文九年(一六九九年)に造られたが、昭和十八年、太平洋戦争により供出された。現在の梵鐘は、昭和三十九年に再建されたもので、直径七十二センチメートル、重量四五〇キログラムである。
なお、境内には水村藤四郎作の庭園(市指定文化財)と昭和四十六年に建てた「狭山茶場碑」がある。
この碑は、安政四年(一八五七年)儒者、佐藤一斎により撰文され、狭山茶の業再建の由来などが記されている。しかし、当時建碑に至らず、昭和四十六年になって金子地区有志によって建てられた。
入間市 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
豊泉寺の庭園
市指定名勝
指定年月日 平成三年八月一日
中神の豊泉寺は曹洞宗に属し、開山は本室徳源和尚、開基は小田原北条氏の家臣といわれる豊泉左近将監と伝えられている。豊泉寺の庭園は本堂の裏側に造られた禅宗式庭園で、明治年間地元根岸の庭師水村藤四郎(一八二二〜一九〇二)によって造られたものである。水村藤四郎は父藤兵衛の後を継いで茶業に励み、茶の製法研究と品質向上に努め、根通り茶独特の”ちらしより”という技術を開発した。中年より造園業に転じ、東京に出て多くの造園に携わり腕を磨いたという。帰郷後も頼まれて作庭にあたり、現在も幾つかの庭園に面影を伝えている。豊泉寺の庭園もその一つで造園当初よりは多少手が加えられているが基本的には変わっておらず、市内の本格的な禅宗式庭園として貴重である。
なお、境内東側には大正二年(一九一三)に建てられた水村藤四郎(茶藤翁)の記念碑と狭山茶場碑(碑文は安政四年)がある。
平成三年十二月
入間市教育委員会
入間市文化財保護審議委員会
境内碑
豊泉寺本堂建立記念碑
発願文
恭しく大恩教主本師釈迦牟尼仏 現座本尊虚空蔵菩薩 土地護伽藍神 高祖承陽大師道元禅師 大祖常済大師瑩山禅師 開山本室徳源大和尚 歴住諸位大和尚 十方三世一切三寶の御加護を頂戴し、護持会より檀信徒の本堂再建協力の志が発せられ、「豊泉寺本堂建設委員会」を結成し広く浄財を募る。
平成二十九年五月本堂新築及び境内整備等着工、同年七月十二日地鎮祭、平成三十年二月二十五日上棟式を謹修、仏祖の御加護と檀信徒の総力結集により平成三十年十月竣工引き渡し、令和元年十一月十七日落慶式を謹修、併せて晋山結制を修行、御開山より相伝す無畏の法幢を再建し、普明の仏徳を仰ぎ、国土安穏、當山並び十方の檀那家門繁栄福寿長久、山門康寧を今次本堂建立圓成の吉辰に冀うものなり。
ここに檀信徒の労苦と功績を讃え記念碑を建立する。
豊泉寺二十五世 峰山章弘 謹誌
令和元年(二〇一九年)十月建立
鐘銘
夫れ當山の梵鐘は今を去る凡そ三百年寛文九年の初鑄に係る後二百歳を経て漸く破損嘉永二年念佛講中婦人之を再鑄然るに昭和十八年大東亜戦に供出了今茲に右記諸氏の発願により戦没諸英領の追弔と各家先亡諸精霊の菩提の為に之を復興す願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし皆共に福慧を増長せんことを
昭和三十九年十一月吉日
境内碑
狭山茶場碑
内閣總理大臣 佐藤榮作題額
茶葉之可飲服自古言之魏晋之間高人韻士愛其清味者稍稍有焉至唐宋而嗜之益多而陸鴻漸之經出其採搞蒸焙之法與留藏烹煎之訣始備焉建久年間有榮西禪師者入宋歸國齎茶種其徒高辨相地之宜而蒔之㝎爲五塲武州狭山其一也當時始知茶之可喫然事在草創其製粗悪至永禄中兵燹並起民戶■替塲亦荒癈而嘉種混於草■國家建櫜士民安業土人文有種茶者文政之初郷老胥議大闢其塲茶戶復起製造各得其法而狭山之茶再出於世矣爾後其製愈精其業愈盛至今四十年隣里郷曲相随培植歲收不知幾千斤也至於茶戸相謀先期其日而各齎其所製於金子郷以■四方概無虛月云抑夫茶之為物生於山水秀麗之閒蘊乎風露清■之氣於是生於山閒者最為超陸之經曰巴川峡山有兩人合抱者因謂峡與狭字相似而音亦相近高辨播茶種或擬巴川峡山而名其地年曆之久今誤為狭山亦不可知也頃者郷人来謂碑記余也齡躋八秩四方文辭之索一切絕之然此請則在不可辭者焉盖茶之滌煩寮渴清神輕骨常服之而致嗜壽者古昔已有其人焉余素同嗜於陸氏而至今神力未■耳聦目明由服茶之功而能致此亦不可知也併而記之
安政四年丁巳三月■■■■■■■一齋■担撰 大舜㚖書
昭和四十六年十一月
狭山茶場碑建設會建之 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/03/09 22:05:45
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