羽梨山神社 参拝記録 (ペルシャさん)

羽梨山神社の参拝記録(ペルシャさん)
羽梨山神社は茨城県笠間市上郷にある神社。祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)。 創建は不明だが、「茨城県神社誌」の社伝によれば、「上世磐筒男、磐筒女の勲積を称えて磐麻国朝日丘に此神を鎮め奉るといふ。昔日本武尊(ヤマトタケル)東征の途に磐麻に到て陣を敷く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ。時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。尊は何人なるやを尋ねしに、「磐筒男、磐筒女」なりと。尊凱旋の後にこの地に到り朝日丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す」とあり、これより羽梨山神社と称するそうだ。 「新編常陸国誌」(1899年)では「天智天皇3年(664年)、桜の多い羽梨山の中腹に木花咲耶姫命を祀る祠を建立したこととをきっかけに、「花白山神社」と呼ばれるようになった」という伝承と、「筑波山に葉が茂っているのに対し、当山には木が無かったため、羽梨山(葉無山)となった」という2つの伝を載せている。ちなみにwikiには前者の社伝のみが紹介されている。 磐麻国というのはかつてあった「岩間郷」を指すのだろう。しかし、そうなると、岩間郷の北西にある難台山を朝日丘と称するのは少々無理がある。岩間の「朝日」丘ならば岩間の東にあってしかるべきだろう。しかし、岩間郷の東は平野が拡がって山と呼べるものはない。ヤマトタケルの伝承は、恐らく香取神社の影響を受けたものであろう。磐筒男、磐筒女は香取神社に祀られている経津主神(フツヌシ)の父母神とされている。 かつて、常陸国一帯は物部氏が多く住んでいたと思われることから、その祖神である普都神(フツヌシ)の神話にからめたものであろう。創建の伝承としては、「新編常陸国誌」に載ってる方が信憑性が高そうだ。 しかし、いくつかの異説はまだある。 「大同類聚方」(808年)には「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」とあり、現石岡市北部の上林・下林付近に「羽梨山之神社」があったとしている。「大同類聚方」は桓武天皇の遺命により、日本固有の医方を収録した全100巻の日本最古の医学書であるが、「日本後紀」(840年)の内容と矛盾があること、また編纂にあたって諸国の豪族・旧家・神社に医方を献上させたとされているが、そのような通達が発せられた形跡もないことから、当時、内裏で保有していた僅かな資料のみで編纂された可能性が高く、地方で伝来されていた医方が正しく記載されていたとは思えない。他の伝本には該当記事自体が存在しないこともあり、近年では偽書とされていることから、茨城郡拜師里にあったというのは疑わしい。 「新編常陸国誌」(1899年)には、天文年間(1532年~1555年)に小川城主。薗部宮内大輔が書いたとされる「薗部状」に、「小田城主・小田政治が、羽梨之宮に軍勢を集め、渡海して小川(城)に着く」という記述があることを理由に、現羽梨山神社は延喜式の羽梨山神社ではないとしている。「薗部状」の該当箇所を抜粋すると、 「政治則剋被出馬。率羽梨之宮被催人数候處。及七百余騎。可被責返之段。頻而府内へ雖被仰越候と。慶就御挨拶樫々と無之故。渡海遅々ニ候處。無程小川へ落着之由申来候間」 となる。 小田城は現つくば市小田にあり、小川城は現小美玉市小川にある。 渡海というのは霞ヶ浦を渡ったということと解釈されるのが一般的にようだ。小田城から現羽梨山神社までは北東に20キロ以上離れており、そこから何かして霞ヶ浦を渡海して再び北上して小川城に着くというのは余りに不自然だということだ。 小田城から直接東に向かうと高浜あたりにつくので、そこから霞ヶ浦を渡海して東に向かい、薗部川を北上して小川城の南で下船したというルートが妥当と考えたようで、軍勢を集めたのは小田から片浜の間、さらに「薗部状」では石岡の近傍を通るという記述になっていることから、石岡の南西にある胎安神社、もしくは子安神社ではないかというのが「新編常陸国誌」の言い分だ。 当時、霞ヶ浦は今よりも海面が多少高かったことから、恐らく小川城西を流れる薗部川近くまで軍船を寄せることができたであろう。となると、確かに胎安神社、子安神社あたちに軍勢を集めるのは分かる。 だが、胎安神社と子安神社は羽梨山に関するような伝承や地名が全くない。羽梨之宮と呼ばれていたなら、何らかの痕跡が残っているはずだ。 「新編常陸国誌」は、安産の守りである2社は子を産むのに問題「なし」だから羽梨山神社と関係しているというダジャレのような解釈をしているが、かなり無理がある。 「薗部状」では。七百騎を率いて帰着したとあり、全軍騎馬兵とは思えないが、少なくとも戦闘をする兵士七百と荷駄などを運ぶ人員もいただろうから、1000人近い規模だと思われる。それだけの兵を船に乗せて渡海する大船を小田氏が有していたとも思えず、かと言って小舟で運ぶとしたら数百艘も必要になり、手間も時間もかかる。そもそも、小田城から小川城に向かうのに、霞ヶ浦を渡海する必要まるでない。軍船を用意する手間を考えれば地上を進んだ方が早く、効率的だ。 恐らく、「渡海」というのは当時は河口部が霞ヶ浦とほぼ一体化していた恋瀬川を渡るということではないだろうか? 「渡海が遅々として進まない」というのは、川幅が広く、浅い恋瀬川を七百もの軍勢が徒歩で渡るのに思った以上に時間がかかったということで、軍勢を一時的に羽梨之宮に留めて順次「渡河」したのではないか。 そうなると、羽梨之宮は恋瀬川周辺にあったと考えられる。 これに近いのが、「小社巡礼 式内社を歩く」(1990年)で揚げられている石岡氏三村の鹿島神社だ。 この鹿島神社のある地区は羽成子(はなし)と呼ばれる。 ただ、こちらも地名が同じだけで、神社にも羽梨山や羽梨山神社に関する伝承は何もない。羽成子あたりは丘陵にはなっているが、山というほどでもなく、ここに神社があっても羽梨山神社とはなるまい。 恐らく、鹿島神社はかつて羽梨山神社とは関係のない「羽梨之宮(羽成子之宮)」と呼ばれていたのだろう。この辺りは鹿島神宮の神域が点在していることから、江戸時代になって鹿島神社に変えたのであろう。 羽梨「山」神社と呼ばれている以上、羽梨山神社は山を神格化した神を祀っていたのは間違いあるまい。筑波山、加波山など、茨城県には山を神格化している神社が多く、恐らく修験者も多かったのであろう。 ただ、「日本三代実録」(901年)には、「羽梨神」が貞観12年(870年)に従五位上、仁和元年(885年)に正五位下の神格を授与されたとある。いずれも「羽梨山神」ではなく「羽梨神」となっていることから、昔古では省略するのが普通なのかもしれない。だとすれば、この羽梨神が羽成子にあったと思われる羽梨之宮(羽成子之宮)である可能性はある。可能性としては外しきれないが、やはり個人的に羽梨神は現・羽梨山神社の祭神だと思う。 元々は羽梨山(現、難台山)山中に祀られていたようだが、天文11年(1542年)兵火で旧跡を悉く消失している。その後、慶長6年(1601年)に現在地(難台山東麓)に熊野権現を祀ったのを機に、羽梨山神社を合祀したそうだ。 この熊野権現創建も伝承がある。「昔一人の老翁がこの地に来て神社を建てることを勧めた。この老翁が熊野権現の化身であり、羽梨山神社東麓に熊野権現を祀った」というものだ。 いかにも唐突だが、熊野権現を祀ったのは羽梨山で修行をしていた修験者であろう。その際、60年も前に消失した羽梨山神社を合祀したのはなぜか。1542年の消失の際に恐らく縁起もご神体も焼けているはず。当時の神主も他界しているだろう。それでも、村の人々にこの神社の記憶がずっと残っていて合祀したのならば、平貞盛が将門討伐を祈って弓矢と砂金を献じたとか、源頼義・義家父子も武運長久を祈願したという伝説もあるようだが、そんな定かならぬ伝説よりも、半世紀も前に消失した神社を村人が覚えていて、熊野権現を創建した際に一緒に合祀したことこそ、この神社の誉れであろう。 熊野権現に合祀された羽梨山神社は、その後、明治の神仏分離によって熊野権現が廃仏されると、自動的に合祀されていた羽梨山神社が主祭神として羽梨山神社となり、今に到る。 一般的に、山の神を祀る神社の祭神は大山祇神(オオヤマツミ)か大山咋神(オオヤマクイ)を祀るものだが、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)を祀る祠を建立したという伝承からコノハナサクヤヒメを祭神としたのだろうが、当初は羽梨山そのものがご神体であったはずだ。

おすすめ度: ★★★
参拝日:2020年12月6日 00:00

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