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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県さいたま市見沼区大字南中野451 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武野田線大和田 徒歩29分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0486835135 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
真言宗智山派 |
創建・建立 |
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由来 |
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神社・お寺情報 |
新編武藏風土記稿
足立郡中野村
正法院 新義眞言宗倉田村明星院末 敕言山福藏寺ト號ス 本尊彌陀ヲ安セリ 地藏堂
境内掲示板
円空作木造薬師如来立像円空作木造十二神将立像
埼玉県指定有形文化財(彫刻)
円空作木造薬師如来立像
円空作木造十二神将立像
所在地 大宮市大字南中野四五一番地
指定 平成六年三月一六日
江戸時代前期の円空という僧が彫刻した仏像や神像を円空仏といいます。
円空は、寛永九年(一六三二)に現在の岐阜県羽島市で生まれたと伝えられ、元禄八年(一六九五)同県関市で亡くなりました。天台宗や修験を修め、一二万体の像を造ることを祈願して、諸国を旅して造仏を続けました。現在全国で五千体近い像が確認されてあり、埼玉県には一五〇体余り、市内にはその半数近い六〇体余りが保存されています。正法院の円空仏は、県内で最初に発見された像です。
薬師如来立像は、丸材を半分に割り、丸い木肌の方を前面にして彫刻しています。体部を著しく省略した簡素な造りで、十二神将立像とは異なった雰囲気の像となっています。
十二神将立像は、丸材を半分に割り、割った面に彫刻しています。この木取り法は、他地方の像には見られない本像独自のものです。
平成九年三月
埼玉県教育委員会
大宮市教育委員会
境内掲示板
大宮市指定文化財 (史跡)
旗本青木高頼一族の墓及び宝篋印塔
平成十二年四月三日指定
青木高頼一族は、天正二年より江戸時代を通じ、「両番(書院番・小姓組番)」として徳川幕府に勤仕し、采地の武蔵足立郡・上総天羽郡において禄高六百五十石を拝領していた旗本です。
菩提寺であるこの正法院には、初代高頼から十代鉄之助まで一族三十三基の墓石と六代正周によって造立された宝篋印塔一基が安置されています。
青木家の居屋敷の位置は江戸番町(現在の千代田区四番町)でしたが、初代高頼が天正十八年小田原の役に供奉し、采地として賜ったこの地に菩提寺を置いたことによるものです。
旗本に限らず、采地との関係で菩提寺を変更したり、墓地・墓石が分産したりしている例が多い中で、この青木家一族の墓石はほぼ完全に残されており、貴重な資料となってます。
二百六十余年に亘り、恙なく勤勉な幕臣として生きてきた青木家の有り様がこの墓石群に顕在しているものといえましょう。
平成十三年三月
大宮市教育委員会
境内掲示板
大宮市指定文化財(平成十二年四月三日指定 大宮市教育委員会)
宝篋印塔
この宝篋印塔は旗本青木家六代正周によって、寛延二年(一七四九年)に造立された。時の住職・賢榮の代であって江戸の石工による優れた作品である。塔の四面には金剛界四仏の種字が刻されている。
此の梵字について、京都・種智院大学教授、児玉義隆師は「刷毛書(朴筆)による阿閦(東)、宝生(南)、阿弥陀(西)、不空成就(北)であり、近世梵字悉曇学者、朴筆の第一人者澄禅の字影である。」と述べられている。青木氏は禄高を減らす失政が無く、長く家格を保ち得たのは今様で言うならば、つまり能史官僚であった。
青木家六百五十石に比べて、今話題の火付盗賊改方の長官「鬼平」こと長谷川平蔵宣以であっても、西城御書院の番士からつとめはじめた四百石御目見旗本武官である。
※御目見・・御目見得とも書く。江戸時代臣下が将軍に謁見することである。
境内掲示板
三鈷の松
三鈷とは、五鈷・独鈷と共に密教法具のひとつである。松葉は通例二葉であるが、此の樹は三葉で珍しく、樹肌は白味が有り白松とも言われる。
もともと弘法大師様が唐にて修行され、後に高野山を開山なされた。境内には、大きな三鈷の松があり、参詣の善男善女がその功徳にあずかろうと松葉を拾って、大事に持ち帰って居られる。(お大師様が唐より三鈷を投げられ、境内の松にかかった由来に依る)
当山も、右の様なご縁で宗祖・大師のご遺徳を尊び、高野山より勧請した。檀徒はじめ参詣諸人の快(安)楽 を祈るものである。
時に、平成二十七年は高野山開創一二〇〇年に当たる。
正法院住職 敬白
境内掲示板
六地歲
地蔵菩薩は、我々をよく導いてくださる。生前善根をつまねばならないと、教えている。
当山の六地蔵尊、台石に宝暦八戊寅年(一七五八)七月吉日、中野村念仏講中並びに篤信の施主によって建立されたことが刻され、三界萬霊諸精霊を供養していることが示されている。
時は江戸幕府九代将軍家重(吉宗の長男)の頃である。
境内掲示板
護摩堂
江戸時代には当初に地蔵堂がありました。明治のはじめ旧代官・大橋家より薬師如来が奉納され、地蔵尊の隣に奉安されました。
昭和六十三年、旧堂老朽甚だしくついに、解体止むなきに至り、再建されました。
現在一月一日元朝、八月廿八日不動、十一月十三日さんや薬師と護摩供が修行されます。殊に地蔵尊は子育てとして、薬師如来は眼病治癒に霊験ありと古くから信仰を集めている。
旧堂には、円空作薬師如来・十二神将が奉られていた。埼玉県内に於いて、円空仏として最初に確認された由緒があります。
地蔵菩薩のご真言
「オンカカカビサンマエイソワカ」
薬師如来のご真言
「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/05/25 20:16:40
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