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参拝日:2024年12月15日 15:35
★★★★ 参拝日:2024年10月26日 07:27
参拝日:2022年5月25日 13:59
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基本情報
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住所 | 埼玉県さいたま市北区日進町1-758 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | JR川越線日進 徒歩9分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0486636005 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.kongouin.com/ |
御本尊 | |
宗派 | 真言宗智山派 |
創建・建立 | |
由来 | 境内碑
金剛院は真言宗智山派のお寺です。真言宗智山派とは、総本山に京都東山七条智積院、大本山に成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院、別格本山に高幡不動尊金剛寺、大須観音寶生院を始めとする、全国に三千あまりのお寺を有する宗団です。 金剛院の創建は古く南北朝時代(一三三六~一三九二 室町時代初期)以前と言われていますが、度重なる火災により当時の文献等はなく、南北朝時代の仏像(木造宝冠釈迦如来坐像・さいたま市指定文化財)のみが現存しております。 金剛院は天正十九年(一五九一)徳川家康公より河越内に寺領四石を賜り、慶安二年(一六四九)八月二十四日には、徳川家光公より下加村内に十石四斗の朱印地を拝領し、下加村(日進一丁目)西谷村(日進三丁目)の菩提寺となりました。今でも金剛院には十通の御朱印状が残されています。 寛永期(一六二四~一六四三)の本末帳によれば、金剛院は下野国(栃木県)足利鶏足寺(平将門伝説のある寺)の末寺でした。金剛院には元禄二年(一六八九)中興開山空正の時の醍醐松橋無量寿院直末許可状が残されており、その後の寛政期(一七八九~一八〇〇)の本末帳には、松橋無量寿院末寺と記されております。これらのことは、新編武蔵風土記稿・武蔵国郡村誌にも記されております。 この空正の時に本尊に不動明王を安置し、花臺山金剛院大聖寺と号しました。当時、金剛院内には、行基菩薩作の観世音菩薩を安置した観音堂(江戸時代に焼失、再建されず)、浅間社(現下加公園)、天神社があり、他に氷川社、八幡社、熊野社を管理していました。 また、金剛院には、下加村大乗院(福寿山と号し本尊は不動明王。稲荷社・牛頭天王社を管理していたが、明治四年八月廃寺。現陸上自衛隊大宮駐屯地敷地内にあり、金剛院鐘楼堂横の宝篋印塔は大乗院より移設)、無量寺(西谷山と号し本尊は不動明王。現日進三丁目阿弥陀堂)、照明院(下加村)、光福寺(医王山と号し本尊に薬師如来を安置。大成村)、阿弥陀堂(西谷村にあり、明治十九年一月一日本堂・庫裡焼失。その後再建され、昭和四十七年現在の本堂完成)等の末寺がありましたが、明治初期の廃仏毀釈により、多くの寺が廃寺になりました。 金剛院は廃仏毀釈の難を逃れましたが、慶長年間(一五九六~一六一四)に建立され延享年間(一七四四~一七四七)に再建された本堂が明治十七年五月十九日、火災により焼失してしまいました。明治二十三年、与野より本堂資材を購入し再建された旧本堂は、昭和四十三年に大改修が施されましたが、近年、老朽化が著しい為、平成二十年に現本堂が建立されました。 山門は江戸時代中期の建立でしたが、昭和六十三年に再建されました。鐘楼堂も江戸時代中期の建立でしたが、梵鐘は太平洋戦争時に供出され、昭和五十九年弘法大師御入定千百五拾年御遠忌記念の際に新鋳、鐘楼堂は平成十五年に再建されました。 金剛院には、さいたま市指定文化財の木像宝冠釈迦如来坐像があります。この像の制作年代は南北朝時代(一三三六~一三九二 室町時代初期)とされ、像高四〇・五cm、髪際高三一・〇cm、膝張二八・二㎝、裳裾垂下長五・四cm。この像は寄木造で、髪を頭上に高く束ね結い上げ、衣のひだを煩わしいほどに形づくり、裳先を前面に垂らすなど、作風に宋元風の特色をもつ作品と思われます。像の前面は後世に塗り替えられていますが、背面は当初のままで、漆地の上に細長く切った金箔で文様を描いています。光背も塗り替えられていますが当初のままとみられ、透かし彫りのなかに上部中央に大日如来像を頂き、左右に三躰ずつ空中を舞う天人が楽器を奏で、左右基部近くには、極楽にいるという想像の鳥(迦陵頻迦)が一対配されています。このように、この仏像は特異な形容であり、彫刻としても優れています。 参考文献 関東真言宗新義本末寺帳(寛永本末帳 寛永十年 一六三三) 寺院本末帳(寛政本末帳 寛政七年 一七九五) 新編武蔵風土記稿(江戸時代後期 文化・文政期 一八〇四~一八二九) 武蔵国郡村誌(明治時代初期) 大宮市史 大宮の郷土史 新編武藏風土記稿 足立郡下加村 金剛院 天正十九年寺領四石ノ御朱印ヲ賜ハリ元祿年中加賜シテ都合十石四斗ノ寺領トナレリ 新義眞言宗京都無量壽院ノ末 昔ハ下野國足利郡鷄足寺ノ末ナリシカ中興開山空正ノ時元祿二年今ノ末トナレリトイフ 花臺山大聖寺ト號ス 本尊ハ不動ヲ安置セリ 觀音堂 觀音ハ行基ノ作ナリ 近キ頃回祿ノ災ニカヽリシヨリ此堂未タ再建ニ及ハサレハカリニ客殿ニ安置セリ 天神社 淺閒社 鐘樓 近年ノ鑄造ナリ |
神社・お寺情報 | 宝篋印塔 享保十五庚戌天十二月(1730)
境内掲示板 さいたま市指定天然記念物 金剛院のシイノキ 樹高約 一三・〇メートル 根回り 四・ハメートル 幹回り 三・ニメートル 枝張り 一三・四メートル(東西) 一三・ニメートル(南北) 金剛院境内には、本堂側から山門にかけ常緑で葉の裏面が少し褐色を帯びるシイノキ、針葉をつけるカヤ、落葉樹のイチョウ、常緑で大きめの葉をつけるタブノキ(イヌグス)が並び独特の景観を呈しています。 本堂に一番近いシイノキは樹齢約三五〇年と推定されている古木で、カヤに近接しているため枝はりは北側に集中しています。本来は大型円錐の樹冠を形成します。地上高約三mの主幹部東側に空洞がありますが樹勢はなお盛んです。 ブナ科に属し、種名(和名)をスダジイ(イタジイ)と呼ぶ雌雄同株の常緑高木で照葉樹林をつくる樹木の一種です。幹は太く、樹皮は黒い灰色で縦さけめが入り、葉はクチクラが発達して光沢があり、裏面は褐色を帯びています。寒さに比較的強く、五月下旬頃開花し、独特の香りを漂わさせます。花実は長楕円形で長さが一・五cm位で、堅く、シイノミと呼ばれ食用となります。材は燃料や器具材、シイタケの原木などにも使われます。 さいたま市指定天然記念物 金剛院のカヤ 樹高 約二四・〇メートル 根回り 五・二メートル 幹回り 二・六メートル 枝張り 一ニ・ハメートル(東西) 一〇・五メートル(南北) シイノキとイチョウの間に植えられ成長したもので樹齢約三〇〇年と推定される大木です。直立した主幹から広がる枝はりは南側のイチョウにさえぎられて自然の均衡を欠きますが、全体として生育は盛んであり市街地のものとして貴重です。カヤは裸子植物のイチイ科に属する常緑の針葉高木で、暖帯から温帯に広く分布しており、また、庭木として各地の庭園に植えられています。雌雄異株の植物で、側枝は規則正しく三叉状に伸長し、葉は細長くてやや堅く、先端はとがり刺状となっています。四月頃に開花して、十月に成熟した実ができ食用となります。また、絞った油は食用油としても優れています。材は良質で加工が容易なため、建築材や器具、工業材としての用途が多く、磨けば光沢を増すので碁盤・将棋盤として賞用されます。 近くではさいたま市中央区(旧与野市)「妙行寺の大カヤ」(国指定)、上尾市「徳星 寺の大カヤ」(県指定)、桶川市明星院所在「倉田の大カヤ」(県指定)などがあります。 さいたま市指定天然記念物 金剛院のタブノキ 樹高 約一五・〇メートル 根回り 四・ハメートル 幹回り 三・三メートル 枝張り 一〇・三メートル(東西) 一二・〇メートル(南北) 一番南側の常緑高木でクスノキ科に属します。一般に暖帯から亜熱帯地域に分布しており、照葉樹林の下部帯を構成する樹木です。クスノキに似ていますが、材質が少し劣るのでイヌグスとも呼ばれます。 長さ六cm~一五cmで革質の葉が枝の先の方に集まって互生します。若芽は紅色を帯びて美しく、五月頃には開花し、のちに平球形をした径一五mm程の実がなります。 三宅島の一部では、以前食用に供していたといわれます。 樹皮は灰黄色をしており、老樹では鱗状に剥げ落ちます。一般に船材や家具材に使われ、樹皮や葉は、線香を作るのに用いられます。 このタブノキは、北側の並木にさえぎられているため、東南方向への枝はりが目立ちます。比較的成長の速い木ですが、樹齢も古く市内ではめずらしい大木で、樹勢もなお盛んです。県指定天然記念物で、同種のものが春日部市と飯能市にあります。 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/10/27 06:22:40 |