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★★★★ 参拝日:2025年11月8日 07:57
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基本情報
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| 住所 | 埼玉県朝霞市膝折町1-16-17 |
| 五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス | 東武東上本線朝霞 徒歩18分 |
| 御朱印授与時間 | |
| 電話番号 | 0484610247 |
| FAX番号 | 0484633901 |
| 公式サイトURL | http://ichijouin.com |
| 御本尊 | |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 創建・建立 | |
| 由来 | 境内掲示板
一乗院略縁起 当山は山号を並流山、院号を一乗院、寺号を平等寺と称する。弘法大師空海上人によって平安時代に立教開宗された真言密教の法燈を斟み、京都東山の智積院を総本山とし、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の三大本山と、全国三千ヶ寺に及ぶ寺院を以て組織される真言宗智山派に属する寺院である。御本尊様は、十一面観世音菩薩で、御頭が十一の面からなり、あらゆる方向に顔を向けて苦しむ衆生を見逃すことなく救ってくれるという誓願を戴く仏様である。 門闢は寺伝によると「古来人ニ依ッテ成ル」とされ、「七一六年(霊亀二年)駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野ノ七国ノ高麗人、一、七九九人が武蔵国(現在の入間付近)ニ移住シ、高麗郡ガ置カレタ。ソノ後戦乱アリテ高麗ノ城陥レリ時、主将某ハ敵ノ為ニ討レ畢ヌ。家臣五人遁レテ落人トナリ此ノ膝折ノ地ヘ来レリ、其頃ハ只原野ナリ。彼ノ五人ノ者力ヲ合ワセテ遂ニ家ヲ作リ居住ノ地トセリ、高麗氏ヲ家號トセル者アリ、ソノ時乱世ノ平和ニ立チ還エル事ヲコイ希イ、且世ノ人々ノ後生ト縁者ノ菩提ヲ願イテ守リ本尊タル十一面観世音菩薩ヲ勧請安置シ一宇ヲ建立ス」というのが起源とされ当時は観音寺と呼ばれていた。 その後星移り物替って南北朝時代の初期に宇治の尊師に依って間口七間奥行五間の本堂が建立された。[現在の寺域よりも東北百米の地で板碑百四十基が点在した場所、因に板碑は、一三五〇年(元和三年)より一四八〇年(文明十二年)が現存] 序で本堂前に稲荷社を配し右手に地蔵堂、左手に大日堂が安置された。更に西に持明院を有し、その奥手に阿弥陀堂(現在の閻魔堂)が建立された。安政年間(一八一七年頃)に二度に互って火災に遭遇し客殿、大日堂等を焼失する。現在の山容は大戦後照與(中興)に依って定まれる。 夕ぐれにいちじょういんの鐘の音が 佛のめぐみしみじみときく 照與作 (一乗院御詠歌より) 昭和六十二年三月彼岸 第三十二世 秀弘敬白 |
| 神社・お寺情報 | 境内掲示板(抜粋)
横山久子先生の碑について 朝霞市立朝霞第一小学校の前身である膝折学校は、明治五年に「学制」が発布されて間もなく、明治七年(一八七四年)五月三十日に、ここ一乗院を仮校舎として開校しました。その後明治十九年に校名を知新学校と改め、明治二十二年に膝折小学校と改称されました。明治三十六年(一九〇三年)に新校舎が出来て移転するまでの約三十年間ここにありました。横山久子先生がここで教鞭をとられたのは、明治二十年前後と思われます。 この碑の題を書かれた高辻修長という人は、菅原道真(天神さま)の子孫で、平安時代後期に高辻家を創立、代々漢籍を扱う紀伝道の家で、文章博士でした。修長は、明治天皇に漢籍を進講し、侍従を勤め、明宮(のちの大正天皇)の御用掛となり、のちに東宮亮、皇太后宮亮、東宮侍従長、宮中顧問官等を歴任し、大正十年(一九二一年)六月に八十二歳で死去されました。(正二位勲一等子爵) 次に、この碑の碑文(漢文)の拙い「読み下し文」を掲げて、久子先生の遺徳を偲ぶことにいたします。 東宮亮正三位勲四等子爵高辻修長題額 横山久子之碑文 凡そ世の尤物と称するは、花卉の麗色禽虫の清音の若く、皆凋衰し易し。夭折にして人をして毎に愛惜せしむ。至人の清秀は殊に以て然りとなす。嬢名は久子、姓は横山氏、東京赤坂田町某の長女なり。性明敏篤実、年十九にして千葉東蓂氏に帰す。当時氏は某学校に教授し、故を以て嬢を得。その薫陶に大悟する所あり。是れより奮発して日夜諸学科を修め、刻苦勵精その業大いに進み、遂に決意して埼玉県教員試問に応ず。当時女流之に応ずる者極めて異数たり。而して甲科に及第するを得。尋いで上保谷及び黒目、膝折の三校に歴任す。懇篤叮寧に子女を教導し、殆ど十有余年にして徳望漸く加わる。嬢丁年学に志し、遽かにその意を達したるは、夫子の誘掖に由ると難も而も、自ら誠意刻苦して能く此に至るに非ずや。然りと難も天之に寿を与えず、中道にして逝く。悲しい哉。数郷の子女之が提誨を愛む者、愛惜痛悼せざるは無し。嬢の死するや実に明治二十三年九月四日、年僅か三十二。是に於て有志の者相図り、醵金を将って一碑石を其の墳上に樹て、以て嬢の生平を不朽に傳す。嬢、姿態婉嫣、儀容節有りて侵すべからざるものの如し。而して書・数以外裁縫に至る等の技芸、一として通暁せざるは無し。而も殊に唱歌の玄妙を極め、その音節の嚠喨、一たび聴かば猶耳底に存するが如し。宜なるかな、子女の追慕忘るる能わずして、嬢に報ゆる所以は是に於てか在り。碑成りて、銘を余に嘱す。余嬢の無年を悼み、其の碑の樹つる挙げて有義を喜ぶなり。仍て之に銘して曰く、 至誠人に感じ 歌を奏して神泣く 生きて寿考なく 死して千春有り ああ一片の石 此の貞珉に表す 藻▢ 渡辺貞治 撰 南総 高浦勝蔵 書 明治二十四年(一八九一年)九月初四日 発起人 新座郡膝折学校 西尾太六 比留間彌太郎 新座郡保谷学校 加藤彦右衛門 蓮見彦三郎 新座郡黒目学校 森田彌三郎 神奈川県明月学校 清水勘次郎 牛山三都男誌す 横山久子先生は、当時膝折四十七番の鹿西屋と言われる現在の膝折町一丁目十三番十四号の高麗家の離れに寄宿しておりました。 因みに法号は「開発院音楽教久大姉」を授与されております。 平成十二年(二〇〇〇年)十二月十二日 並流山一乗院住職 三十二世秀弘代 |
| 例祭日 | |
| 神紋・寺紋 |
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| 更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2025/11/08 18:12:09 |





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