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★★★ 参拝日:2021年7月11日 16:42
安養寺と敷地が繋がっていたのに驚きました。何の関係かは調べないといけませんが、二戸市の中心の神社でしょうね。神輿堂、能舞台を用意されてました。安養寺同様階段がありましたので登って見ましたが、コチラは広場?に見えました。 御朱印が拝領出来るかと思いましたが社務所に思える所は不在でしたので今日は帰ります。
参拝日:2024年2月23日 00:00
★★ 参拝日:2023年12月28日 13:27
★★★★ 参拝日:2023年10月31日 00:00
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※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 岩手県二戸市福岡字松の丸21 |
五畿八道 令制国 |
東山道 陸奥 |
アクセス | いわて銀河鉄道線二戸 徒歩17分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0195232042 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://tonkouinari.blog.jp/ |
御祭神 | 宇迦廼御霊命 |
創建・建立 | 延暦2年(801) |
旧社格 | 県社 |
由来 | 当神社は一説に延暦2年(801)出羽大物忘神社の御分霊として鎮座し、古くは吉平大神蔵と称し、王子稲荷・霞ヶ関稲荷と共に関東三稲荷の一社ともいわれる。天和2年(1682)神号拝授以来代々南部藩主が崇敬し、貞享3年(1688)重信公が、流れ作りの荘厳な社殿を建立されてより信恩公、信幹公、利雄公と20年毎に社殿が修築され、また利雄公は宝暦13年(1763)六角御輿を寄進、利敬公は神楽能面、衣装等を寄進され、毎年の大祭御輿渡御は官祭として執行され(千石の格式)、中山以北の総鎮守として農商工漁業の守護神として厚い信仰を受けてきた。社殿は明治の初めに神明造りに改築され、大正11年(1922)には県社に列せられた。その後昭和58年(1983)社殿の増改築を行う。 (岩手県神道青年会ホームページより) 当社は、延暦20年(801年)に出羽国(現在の山形県)の大物忌神社(おおものいみじんじゃ)を勧請し、浄法寺村稲庭嶽に祀ったのが始まりと言われています。貞元親王(清和天皇の第三皇子)の孫にあたる源重之の母親が託宣により宮野の里に遷座し、稲荷大神と称えていましたが、九戸政実と豊臣軍の戦いがあり、戦乱を避けていったん津軽に遷座しました。宮野落城により、別城である松の丸を修理増築して、二十六代南部信直公が移られ宮野は福岡と改められました。稲荷大神は、二戸郡漆沢村に御遷幸となりました。二十七代利直公の時、秋田城之介の家臣であった小保内源左衛門が、主家没落のため今の盛岡市仙北町で南部家に仕えていましたが、もともとの南部家臣たちから後ろ指をされるのに憤慨し北に向かいました。二戸郡漆沢村に至った際、その夜に霊夢がありました。稲荷大神より宮野の地に祭るよう信託をうけた源左衛門は、翌朝福岡城下に赴き、三日町(現在の五日町)が清浄の地としてふさわしいと考え、一祠を建立しました。 そして、天和2年(1682年)、2月3日の夜に遷座となりました。 そのころ、南部氏の幼君が疱瘡を病みましたが、幼君は枕元に白髪白衣の老人がありて我を看護せり、この老人は稲荷大神なり決して心配すべからずと話しそれから南部氏の稲荷大神への崇敬がいよいよ厚くなりました。 天和3年(1683年)に呑香稲荷大明神の神号を受けています。 神号を受けて以来、代々の南部藩主が崇敬しました。 中山より北の総鎮守として、農業・商業・漁業・工業の守護神として 厚い信仰を受けてきました。 (呑香稲荷神社ブログより抜粋) |
神社・お寺情報 | 特殊神事として、古法厳守された旧正月春祈祷釜鳴式、5月探湯祭(クガタチ)が執り行われ、毎年大勢の参拝者で賑わっている。 |
例祭日 | 9月5日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】ひろちゃん 【 最終 更新日時】2021/10/09 19:58:48 |