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基本情報
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| 住所 |
埼玉県熊谷市飯塚913 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス |
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| 御朱印授与時間 |
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| 電話番号 |
0485881206 |
| FAX番号 |
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| 公式サイトURL |
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| 御本尊 |
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| 宗派 |
高野山真言宗 |
| 創建・建立 |
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| 由来 |
新編武藏風土記稿
幡羅郡飯塚村
來迎寺 古義眞言宗蓮沼村總持寺末雲祥山威德院ト號ス本尊彌陀古ハ天神坊ト云シカ何ノ頃カ一寺トナレリ中興僧快辨寬永五年三月廿一日寂ス 天神社 虛空藏堂 |
| 神社・お寺情報 |
普門品十萬巻供養 安永五丙申(1776)
境内碑
義民与五左衛門頌徳碑
妻沼町長 高橋茂書
近世の飯塚村は幡羅郡長井庄に属し村高は七百五十五石であった 元禄郷帳によれば旗本深津三家と山本家相給の地であった
この頃 飯塚村原口与五左衛門は名主勤役中 度重なる水害で村人が困窮するのを見るに忍びず地頭所に年貢の減免と救米の給付を強訴したが受け入れられず 止むなく身命を賭して御蔵を開き施し農民を救ったために地頭の怒りをかい 元禄九年(一六九六)七月二十九日 子の源之丞と共に処刑され田畑屋敷は没収となった
与五左衛門の妻は突然夫子を一挙に失い途方にくれたが やがて比丘尼となり夫子の菩提を弔うに余念のない日々となった
しかし急変した境遇とやつれから病魔に冒されて元禄十二年(一六九九)十一月不帰の客となり此処来迎寺に葬られた
与五左衛門の没後八十三年を経た安永八年(一七七九)七月二十九日 時の来迎寺住職法印阿闍梨良快は与五左衛門父子を追善の為石製の祠を建立し 名付けて郷祖先社の宮と称した
村の祖先隠れ強訴を祀るお宮という意味と考えられる
その後 寛政七年(一七九五)名主川田兵左衛門家の法会に併せ 義民与五左衛門父子の百年忌の供養をしたい旨来迎寺住職をはじめ村役人惣百姓他他領百姓が連印して地頭所に歎顧した所 九十有余歳の名主祖父前兵五左衛門の熱意により地頭の許可を得 追善供養の法要が執行された
以来農民たちは与五左衛門の遺徳を偲び命日には村中からの喜捨により 追善の祭典が毎年行なわれるようになり 明治 大正 昭和の年代まで続いたが 第二次世界大戦による非常時体制と物資欠乏に直面し中断された 戦後の混乱も収まった昭和三十年(一九五五)祭典が再開され 翌年郭で積立てていた納税奨励金を基に祠の覆屋を新築し 更に昭和六十二年(一九八七)めぬま郷土かるたに「農民の苦しみ救った与五左衛門」と詠まれ名を残した
ここに三百年祭の執行に当たり村人相寄り義民与五左衛門の功を讃えて覆屋を新築し 二百有余年 来迎寺境内にあった与五左衛門親子の墓石を祠の傍に安置し碑を建て 永く先人の高風を後昆に伝える
平成八年十一月二十四日
妻沼町文化財調査研究会 内田信一撰文
弥藤吾 雄堂大山雄三謹書
法光道林信士 俗名与五左衛門(父)元禄九年七月二十九日没
去覚清夢信士 俗名源之丞 (子)元禄九年七月二十九日没
随覚貞雲比丘尼 俗名貞 (母)元禄十二年十一月二十九日没 |
| 例祭日 |
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| 神紋・寺紋 |
未登録
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| 更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/10/22 14:53:10
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