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基本情報
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住所 |
和歌山県和歌山市関戸1丁目2番地 |
五畿八道 令制国 |
南海道 紀伊 |
アクセス |
JR紀勢本線紀三井寺 徒歩28分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
073-444-0668 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
(主祭神)賀茂建津之身命 (別名やたがらすのみこと) (配祀神)吉井駒島神 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
御祭神賀茂建津之身命は、またの御名を八咫烏命と申し上げる大神にましまして、神武天皇御東征の砌、紀伊国熊野邑から大和に向かわれたが、山中嶮絶して進退きわまられた時に天照大神の御神勅を奉じ、大鳥の飛翔するが如く皇軍を導かれ、また時には勅命を奉じて賊将の陣営に到り降伏を諭し勧めるなど、我が肇国の大業に勲功赫々たる大神にまします。よって勝運、開運、情報、交通安全、方徐の神として崇められている。吉井駒島神は本国神明に正五位下吉井駒島神と見える神で、井水の神であらせられる、元境内神社であった。中古は和歌吹上の大神として四囲に知られ、海部、名草二郡にわたる雑賀荘21か村の総社大産神として荘民の崇敬を集めていた。天正5(1577)年、雑賀孫市が率いる雑賀党が織田信長に攻められた時、村民が神助を祈ったところ、「敵兵三月三日干潮を待って攻め来らん、われ村民のために海潮を退かしめず」との神託どおり、当日は潮満々として敵兵難渋するところを攻めて勝利した。その時の欣喜雀躍が雑賀踊の始まりである。また天正8(1580)年に石山本願寺が落城して顕如・教如父子上人が当国に下向し、雑賀党がこれを守護した。寄手に追われた教如上人が雑賀崎の鷹の巣の洞窟に逃れ食事も絶えた折、海上に端麗な女人が顕れて、ここかしこと飛行して長刀を水車の如く振って防ぎ敵を近づけなかった。しばらくあって本能寺の変があり、寄手は引揚げ無事を得た。彼の女人は「矢宮大明神人の化現」と人皆この霊験を讃えた。然し社殿、古文書等は兵火で焼失して荒廃し、假宮を建てて祭祀していたが、慶長6(1601)年の浅野幸長の検地の際に5町3反6畝12歩の社地の大部分を失った。徳川初代藩主頼宣公は、寛永14(1637)年に社地(1,845坪)を定められ、本殿・末社2宇・鳥居2基を造営して御再興になられた。爾来幕末に至るまで国内の大社として歴代藩主の崇敬は殊のほか篤く、増築修覆、寄進奉納、祈願祈は絶えることがなく、八代藩主重倫公より幕末まで当社神官に代々神道方を仰せつけられ職禄を給せられた。これに做って当国はもちろん、阿波・讃岐・淡路・和泉の崇敬者も多く、明治維新前後は神符の下渡しも年額40,000有余体に及ぶ勢であった。 |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
10月13日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】やっぴ-
【
最終
更新日時】2019/12/01 21:00:32
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