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★★★ 参拝日:2024年4月16日 13:00
1262年に鎌倉幕府執政北条時頼により創建。鎌倉幕府初代執権北条時政により暗殺された源頼家の二男である千寿丸が落ち延び出家し、瑶光房道円と名を改めこの地で草庵を結んだと伝わる。
★★★★ 参拝日:2024年3月23日 00:00
参拝日:2024年1月7日 21:14
参拝日:2023年12月23日 00:00
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住所 | 埼玉県川越市小ケ谷61 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | JR川越線西川越 徒歩9分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0492423921 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.saimyouzi.com/ |
御本尊 | |
宗派 | 天台宗 |
創建・建立 | |
由来 | 最明寺縁起
當山の由来は、鎌倉幕府執政正五位北条相模守平時頼が弘長二年(一二六二)に創建した事により始まる 信濃國(長野県)の住人泉小次郎親平始め和田一統その他同志の者が申し合せ執権北條時政により伊豆修善寺に於て源頼家が殺された後頼家の二男千寿丸を将軍にとりたてて北條一族を滅す計画としたが時至らず親平は千寿丸を奉て鎌倉を立退き武蔵国三芳野豊田源兵衛景快なる者の縁故をたよりて暮すべく出家して當地に来り千寿丸は瑶光房道円と名を改めて草庵を結びこの地に住した 康元二年(一五二七)時頼執権職を辞して御剃髪し最明寺入道学了房道崇と改名して四民横耶を探すべく諸国行脚の折当地に於て草庵に暮す御老僧(千寿丸)に参會しその有様を御気毒に存じ三年巡業の後鎌倉に立帰り供養の為に一寺建立いたすべく将軍に奉聞した処早速御許しあり造営の為に時頼自ら金壹百五拾貫を寄附し建立された臨済禅宗の寺であり瑶光房をこの寺の別當職に任じ鎌倉(幕府)同様に敬崇すべく七百余石の御朱印地を賜り瑶光房を山号とし瑶光山最明寺と名付けられた 建立されし七堂伽藍は輪美を盡し末寺の数も多く佛法の勝地として栄えたが惜哉永正元年(一五〇四)の合戦の為焼失す 其の時開山時頼の鋳造せる鐘は焼砕し龍頭は睴て熊野の渕に入る 元禄十一年(一七〇一)下小ヶ谷宇津木半左エ門施主にて焼鐘を鋳直せし記録あるも現存せず 天文六年(一五二七)上杉北條二氏の兵火を罹り再び堂宇判物悉く焼燼し再度建立したが亦々安永二年(一七七四)失火にて過去帳を出す暇もなく焼失した この時本尊阿弥陀佛と開山時頼の位牌は隣家の佐源次なる若者により持出し現存の物がこれなり 天台宗への改宗は慶長十四年(一六〇九)天海大僧正佛門を中興せられた時天台宗の宗籍を班別し川越市喜多院末寺に提せられる 天明七年(一七八七)今の寺再三建立し爾来幾星霜を閲し往時の盛観及ばずと雖も法燈連綿として今日に至る 明治四十四年(一九一一)か萱葺屋根を瓦葺に改築し今繁栄の本堂が是なるものなり 昭和四十七年秋彼岸建之 戸泉氏所蔵最明寺縁起写 新編武藏風土記稿 入間郡小ヶ谷村 最明寺 天台宗河越北院末 瑤光山ト號ス 開山ノ僧及ヒ年代詳ナラス 或ハ云北條相模守平時賴カ開基ニテ ソノカミハ禪宗ナリシカ 何ノ頃カ改宗シテ北院ノ末ニ屬セシト 本尊三尊ノ彌陀ヲ安ス 鐘一口本堂ノ軒ニ掛ク 奉鑄造華鐘 願主 權大僧都龍淸法印 自性院殿一窓妙月大姉 權大僧都後生院 宇都木半左衞門貞利 于時元祿十一戊寅年如意珠日 當山開基鐮倉執權正五位時賴公 弘長三癸亥年 瑤光山最明寺眞日院 是ニ據テモ時賴檀越ナリト云コト全クノ附會ニモ有ヘカラス 古碑一基 文字漫滅シテ讀ヘカラス 唯建武二年八月ノ數字見ユ |
神社・お寺情報 | 関東百八地蔵・第1番札所 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2024/12/31 07:16:09 |