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参拝日:2017年11月23日 00:00
★★★ 参拝日:2002年5月23日 00:00
備後国一の宮。いっきゅうさん。 同じく一の宮の素戔嗚神社が直近にある。 JR新市駅より1.5km、徒歩20分。 山陽自動車道、福山東から府中方面へ15キロ、または福山西から府中方面へ20キロ。国道486号新市駅前から国道26号へ入る。
★★★★★ 参拝日:2023年8月31日 15:40
参拝日:2020年3月15日 16:08
一之宮巡り47社目 一之宮御朱印帳その36 本殿改修工事中
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住所 | 広島県福山市新市町宮内400番地 |
五畿八道 令制国 |
山陽道 備後 |
アクセス | JR福塩線新市 徒歩20分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0847-51-3395 |
FAX番号 | 0847-51-8970 |
公式サイトURL | http://bingokibitujinja.com/ |
御祭神 | 【主祭神】 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと) 【相殿神】 <左座> 大日本根子彦太瓊命(おおやまとねこひこふとにのみこと) 細比売命(くわしひめのみこと) <右座> 稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと) |
創建・建立 | 大同元年3月(西暦806年) |
旧社格 | |
由来 | 【頒布-リーフレット】備後一宮 吉備津神社
御由緒 社殿では平安時代の初めの大同元年(806)年、備後国品治郡宮内(現在の福山市新市町宮内)の地に創建されたとされ、備後国の一宮として国中より尊崇を集めました。 『百錬抄』によると寛喜元(1229)年、また『日本史列伝』では元弘2(1332)年に火災にあい、本殿が焼失しています。 その後、永和2(1376)年、小野宮左近将監が再建しました。 鎌倉時代の『一遍上人年譜略』『一遍正絵伝』によれば、弘安10(1287)年、時宗の開祖「一遍上人」が当社に参詣し、上人供養の為として秦皇破陣楽という舞楽を観賞している様子が社殿配置とともに描かれています。 永和再建のときより正宮一宇として現社殿の原形となっています。 慶安元(1648)年、初代福山藩主水野勝成公が社殿を造営し現在に至ります。 御祭神 吉備津神社本殿内陣中央には、主祭神を大吉備津彦命(オオキビツヒコノミコト)、本殿向かって右側には相殿神に大日本根子彦太瓊命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)(孝霊天皇)と、細比売命(クワシヒメノミコト)を、左側には稚武吉備津彦命(ワカタケキビツヒコノミコト)をお祀りしています。 大吉備津彦命は、第7代孝霊天皇の皇子で、山陽道の平定を任され、四道将軍と称されていました。 本の名を五十狭芹彦命(イセサリヒコノミコト)といいます。 大日本根子彦太瓊命は、第7代孝霊天皇で、大吉備津彦命や稚武吉備津彦命の父君にあたります。 細比売命は、絙某姉命や倭国香命ともいい、孝霊天皇の皇后です。 稚武吉備津彦命は、大吉備津彦命の弟君で、ともに吉備を治められました。 また、吉備臣の祖とされています。 御社殿 現在の本殿は、江戸時代の初めから約370年前の慶安元(1648)年に福山城を築いた水野勝成公によって再建されたものです。 『一宮重興記(イチノミヤジュウコウキ)』という古文書と本殿の至る所にある『宝珠(ホウジュ)の刻銘(コクメイ)』によってうかがい知ることができます。 本殿の規模は、桁行(ケタユキ)7間(18.48m)・梁間(ハリマ)4間(9.7m)の入母屋造平入(イリモヤヅクリヒライリ)で正面に向拝(コウハイ)3間を付けます。 屋根は檜皮葺(ヒワダブキ)で、正面には千鳥破風(チドリハフ)と軒唐破風(ノキカラハフ)が付いており、桃山時代風の豪華さが加えられています。 本殿は、昭和40(1965)年に、国の重要文化財に指定されています。 |
神社・お寺情報 | 備後国一宮 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 五瓜に唐花 |
更新情報 | 【
最終
更新者】御坂美琴推し 【 最終 更新日時】2020/02/17 19:50:14 |