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★★★ 参拝日:2019年10月9日 15:30
国史見在社。県社。 琵琶湖沿いにご鎮座。 鳥居参道は西側。 車は琵琶湖沿いから鳥居の横の境内に入れさせて頂きました。 琵琶湖に沿うような形で長い参道?があり、真っ直ぐ伸びる道は、流鏑馬が行われていたのかと思うような感じです。 境内は交通量の多い道沿いとは思えない落ち着いた感じです。 例祭は珍しい神事のようで興味深いです。 境内無人でしたので、御朱印の有無は不明です。
参拝日:2021年3月12日 00:00
琵琶湖の東岸畔、「朝妻筑摩」に鎮座する社。当社西側は琵琶湖、東側は内湖「入江湖」。創祀は由来の項の通り。 神功皇后は息長氏の血を引き、継体天皇も息長氏の血を引くとも。息長氏に関わる社であると言えそうです。孝安天皇二十八年というのが謎。大膳職「御厨」が置かれたのは桓武天皇の御宇。主祭神から配祀神の三座を加えた計四座は、いずれもその「御厨」の守護神であったと思われます。創建はこの時代ということでしょうか。創祀時は息長氏が奉斎していたということから、水神を祀っていたように思います。
参拝日:2021年10月23日 00:00
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住所 | 滋賀県米原市朝妻筑摩1987 |
五畿八道 令制国 |
東山道 近江 |
アクセス | 東海道新幹線米原 徒歩26分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | |
FAX番号 | |
公式サイトURL | http://www.ex.biwa.ne.jp/~nabekama |
御祭神 | 御食津神 〔配祀神〕大歳神 倉稲魂神 大市姫神 |
創建・建立 | |
旧社格 | 県社 |
由来 | 社伝によれば、創祀は孝安天皇28年である。延喜式内神名帳には、社名は列しないが、古社であることは、延喜以前の文徳天皇仁寿2年に従五位下の神階を授けられたことでも知られる。神功皇后征韓の当時、御祈願をされ、又継体天皇が若狭国より還幸の途中、当社に奉幣の儀があったことが記されている。此の地は、古く大膳職御厨の置かれた所で、その鎮守として、御食津神を祀ったものと推想される。後、社殿を整備し、神域は東は内湖より西は湖浜を限り、南は磯、北は朝妻に至り、神境の規模を拡大し、広大な神領を有し、年35度の神事を営み、2度の大祭を執行したと言う。本社別当に6ヶ寺あり、僧徒は年中社頭に参籠し、経文を読み祈禱をしている。興福寺三綱牒記に「近江国坂田郡筑摩神社及五箇別六箇寺院者、則当寺之支配未社寺之処、近頃延暦寺衆徒等企異議社領寺納欲為押領云々、甚不可然、仍賜綸旨長者、宣永代改易之事、且甲乙人等乱妨狼籍停止之旨、早以伝下知彼寺謹悉知之云々、」と見え、当社々領併に附属六箇寺の寺領も、延暦寺の衆徒に押領されたので、早く此の狼籍を止められんこと請うたものである。其の後の変遷は詳でないが、社記によると、平清盛が社領を奪い、社殿が荒廃したので、興福寺の範雅僧都は源頼朝に社殿の改修を請うている。頼朝は建久2年、佐々木定綱に命じて社殿を再建し、伊勢国に於て神領を加へた。又明徳2年興福寺官務古市播摩澄胤、社殿を修造したが、応仁の乱に山名党の為に兵火にかゝり、社宝等焼失したことが記されている。永禄7年、神主筑摩相模守重実は、氏子等と湖北3郡の諸豪族を勧請して、神殿を造営し、祭典を再興した。「近江国坂田郡志より」明治16年郷社に列し、大正4年県社に昇格。同年神饌幣帛料供進指定となる。 |
神社・お寺情報 | 国史見在社 |
例祭日 | 5月 3日 鍋冠祭り 7〜8歳の少女が狩衣に張り子の鍋をかぶって行列する。古来、婦女が関係した男の数だけの鍋をかぶらせることによって、女の貞操を守らせる祭りとされてきた。しかし筑摩神社の祭神が御食津神であり、当地に御厨(みくりや)があったことから、鍋は神供の運搬とかかわりがあったことも十分に考えられる。なお行列渡御には、鍋被りのほか鉾持ち・母衣・奴・曳山などがならぶ。 5月 8日 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】天地悠久 【 最終 更新日時】2021/05/05 04:24:17 |