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基本情報
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| 住所 |
埼玉県児玉郡神川町下阿久原 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
| アクセス |
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| 御朱印授与時間 |
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| 電話番号 |
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| FAX番号 |
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| 公式サイトURL |
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| 御祭神 |
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| 創建・建立 |
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| 旧社格 |
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| 由来 |
境内掲示板抜粋
有氏神社は、武蔵七党の一つである児玉党の祖、有道惟行(ありみちこれゆき)をまつると伝えられている。地元では、有氏は有道の転訛であるといい、祭りを称して「アリッツァマの祭り」とか「裸祭り」とも呼んでいる。この祭りは正徳三年(一七一三)に始まったとされ、 祭日は陰暦九月二十九日であったが、現在は十一月十九日に行われている。 |
| 神社・お寺情報 |
境内碑
建碑の詞
有氏神社は、生徳三年以来二百八十余年の祭礼記録を持ち、阿
久原牧と児玉党の歴史を今に伝える証である。
かつて、有道維能は藤原道隆の子伊周が内覧職となった長徳元年
家司として任えた。だが、長徳二年突然の変事により伊周が流罪
となったため解任の止むなきに至り、阿久原牧の別当として来任
した。この地に生まれた維行は有貫主を称し牧を管理し、やがて
有道姓を名乗るその子孫は、武蔵国西北部の児玉入間比企秩父か
ら上野国西部にいたるまで勢力を伸ばし、児玉党と呼ばれる一大
武士団を築いた。鎌倉時代になると全国各地に所領や所職を得て
活躍し、任地西国に移住する一族もあった。
そうした児玉党末裔の児玉秀雄氏が当社を参拝されたことを契
機に、昭和十一年社殿改築奉賛会が組織された。しかし、日中戦
争のため中断されその後懸案のまま現在に至った。
この度、維行(延久元年没)の生誕千年を記念して、児玉地区
文化財保護協会をはじめ多くの方々の協力を得て、ここに社殿改
築が実現する運びとなった。
幸い工事は順調に進み、九月十九日上棟、十一月十九日氏子及
び崇敬者一同喜びの内に完成式を盛大に行うに至った。依って、
有氏神社社殿改築の喜びを子々孫々に伝えようと、この碑を建立
するものである。
平成十二年十一月十九日 有氏神社氏子並びに崇敬者一同
撰文 神泉村教育委員会教育長 長谷川典明
潤筆 神泉村文化財保護審議会長 新井高光
有氏神祠碑
中古天下之實力在關左関左之實力在八平七黨兒玉党㝡強而阿久
原者兒玉党肇基之地也阿久原有一祠曰有氏明神村民自古毎歳祭
之葢有氏者有道氏之省語也抑物部氏出自 天忍穂耳尊而 景行
帝五十三年 帝東巡至於葛飾野物部大咩布命其子豊日連従馬
帝定大伴部豊日連負大伴部造姓其十三世孫従五位氏道賜有道宿
禰姓其六世孫維能去京師移武藏國兒玉郡因氏爲其子則維行也其
族五十餘皆出自維行勇武倜償児玉黨之名者扵天下治暦延久間維
行称有貫主居阿久原監牧業任武藏守民懐其徳延久元年八月八日
卒子有大夫弘行孫武藏權守家行等數卋居此地而維能以下之死其
年月日不可得考可考者獨維行耳雖然觀祠號表其姓盖維能以下數
卋之祠也今其祠依然而存例祭不懈者八百餘秊葢上世敬祖之遺風
也郡人質直好古之者憂偉蹟之或泯滅欲建碑以傳扵不朽請銘扵余
余其裔也故喜作銘銘曰 建國之制 敬祖重倫 有道祭先
忠孝天真 監牧茁長 從政化淳 本支繁衍 豈無宿因
甘棠勿伐 遺愛在民 八百餘歳 精禋如新
明治二十六年十月
兒玉黨人従五位有道宿祢中條政恒撰
同 翠峯逸士淺見慶三郎題額并書 |
| 例祭日 |
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| 神紋・寺紋 |
未登録
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| 更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2019/05/19 18:27:43
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