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基本情報
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住所 |
埼玉県さいたま市西区宝来町1565 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR川越線指扇 徒歩3分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
天照皇大神 |
創建・建立 |
寛文元年(1661年) |
旧社格 |
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由来 |
社頭掲示
宝来地区の歴史・祭礼史
神明宮は江戸時代初期(一六六一年)に、山内豊前守一唯公が山内家の守護神、下宝来村の平和を願って、祭建されたものと伝えられる。
山内一唯は山内一豊の甥で、大坂夏の陣に功あって、指扇領三千石を贈られた。豊房に至る四代、元和九(一六二三)年から元禄三(一六八九)年の六六年間、旗本山内家が領主となっていた。一唯は、家老で土木巧者の高村権之丞に、宝来野の開発を進めさせた。息子の庄左衛門が、寛文五(一六八五)に神明宮に築堤工事竣工のお礼として、青銅鏡(市指定工芸品・市最古)を奉納した。
元禄七(一六九四)年の検地で、上宝来村と下宝来村に分村したが、合併したのは明治七(一八七四)年。
ここで伯父小林留五郎から伝えられてきた、伝説及び宝来の祖先の苦難を記したい。
高村氏は宝来を開拓、堤防を築き宝来村は誕生せしものの、毎年堤防は欠損し水害に悩まされた。一唯公おおいにこれを悲しんで日夜現地を調査しているある夜、夢に愛宕の神の乗った神馬を見た。そして「わたしの通った跡に堤防を築くべし。」と言う。翌朝その地に行ってみれば、まさしく馬の足跡あり。これを基にして築堤を命じた。それ以降は堤防決裂はなかったという。
神明宮が峰岸の氷川社に合祀されたのが明治四一(一九〇八)年のこと。その八月二四日大洪水に見舞われ、二m程の床上浸水。家財流失し農作物は甚大な被害を被った。そしてこの復旧もつかぬ明治四三(一九一〇)年八月十日、それまでの一六日間で一〇〇〇mmを超す降雨量のため、またもや堤防決壊。古今未曾有の大洪水となった。全戸約三m浸水し、屋根を切り抜いて脱出、屋根の上より救いを求めた。救助船により、学校、寺院等に収容され二〇日間飲まず食わずの日は続いた。死者一七名、流失家屋一五戸、他は半壊の大惨事となった。泥水減ってみれば農作物は腐敗、家具は流失して何一つなく、その惨憺たる様は一口に表し難し。決壊箇所は十数mの深きに掘られ(今の大堀)、その土砂が十町歩以上の田畑に山となったという。
合祀以降災害が多く、昭和元(一九二六)年神明宮を旧地に遷宮した。八雲神社も元に戻し、幟も作り、祭礼員も整って盛大に祭典を挙行した。これより、下、中の氏子一同一家のごとく平和に大いに栄えてきた。
初稿小林仙司
二稿中野孝司
三稿蓜島 勉
[参考文献ふるさと指扇・大宮市史] |
神社・お寺情報 |
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2024/06/23 07:18:45
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