埼玉県比企郡ときがわ町西平1523 多武峯神社の写真1
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多武峯神社


埼玉県比企郡ときがわ町西平1523

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thonglor17さん
★★★ 参拝日:2021年4月24日 05:23


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基本情報


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住所 埼玉県比企郡ときがわ町西平1523
五畿八道
令制国
 
アクセス
御朱印授与時間
電話番号
FAX番号
公式サイトURL
御祭神 藤原鎌足公
創建・建立
旧社格
由来 掲示板
多武峯神社沿革の概要
 往古からこの地を武州多武峯と称し、日本三多武峯の一として知らる。多武峯神社の御祭神は大職冠藤原鎌足公で今から千二百数十年のむかし即ち慶雲三丙午年(七〇六)の三月大和の国多武峯談山から公の遺霊を当山に遷し武藤家の守護神として祭らる。 
 以来文人武人の信仰殊に厚く、南北朝に降って神社山麓に火災起りその類焼を蒙り全山灰燼に帰してしまったのであるが、当山第三十八世一峯法印別当の世、時の中納言である藤原藤房郷大願主となって、当地竜ヶ谷の工匠森川金八に命じ三間四面朱塗りの殿堂を再建したのである。時正に正慶二年八月十五日(一三三三)
 明治維新に至るまで行基菩薩の作である聖観世音と相殿であったが、徳川三代将軍家光公以来代々五石余の朱印状を賜わり当地が観音堂領となっていたのである。世の人当山を称し観音山と言い鬱蒼とした原生林に覆われた神域は天狗の山とも言われている。
 明治四十年一月十九日の夜再び火災に逢い社殿は焼失し山容は見る影もない形相となったのであるが、大正十五年二月当山第六四世代現在の神社を再建した。 
 神秘の山多武峯には断崖の絶景、龍宮の穴等人跡未踏の聖地もあり独特の風光に参詣の人々の心を強く打つものがある。なお当山山頂に棚を廻らし文亀二年建立(四百六十三年前)の五輪の塔があるがこれは祭神鎌足公の墓でありこの塚から奈良朝末期作の瓦塔の破片古壺等の出土品多数あり昭和三十四年三月多武峯瓦塔遺蹟として埼玉県指定史蹟に指定されたのである。
 多武峯御詠歌
  はるばると登りて聞けば百鳥の
   声もみのりもかたらひの峯
昭和三十九年四月十五日 第六十四代 当主武藤昌蔵 記

多武峯神社の由来
 この多武峯神社は、慶雲三年(七〇六)に藤原鎌足の遺髪を大和国多武峯から遷して祀ったのが始まりとされています。その後、同所に福聚寺観音堂が建立されました。観音堂は三間四面の朱塗りの堂宇であったと伝えられ、南北朝時代の頃に火災に遭い、再建されています。明治二年(一八六九)に多武峯神社と改称されましたが、明治四〇年(一九〇七)に再び山火事により延焼し、現在の社殿は大正十五年(一九二六)に建立されたものです。
 神社名になっている「多武峯」は、また「塔の峯」とも称されています。それは、社殿のある峯の形が塔のように見えること、あるいは往古瓦塔があったと伝えられるからです。その証拠に大正十三年、社殿の北西側にある塚から瓦塔、瓦堂、須恵器杯等の破片や十四世紀作と考えられる蔵骨器、片口鉢が出土しています。多武峯神社の瓦塔は、県内出土の瓦塔の中でも最古に分類されるもので、九世紀頃と推定される貴重なものです。塚の上には、文亀四年(一五〇四)銘の五輪塔も祀られています。
 また、かつて社殿西側には、文安二年(一四四五)銘の十三仏板碑や長禄五年(一四六一)銘の六観音・六地蔵板碑など、都幾川村を代表する板碑も十数基立ち並んでいました(現在は武藤家東側に移動)。これらのことから、多武峯神社は、古代・中世の文化財が多数発見された貴重な遺跡でもあります。
 神社の祭典は、郡村誌には三月十五日と記されています。その後四月十五日に変更となり、現在は五月三日に行われています。
 なお、社殿は標高三六八メートルに位置していますが、南側は高さ九九丈といわれる断崖絶壁となっており、その中腹には椀貸し伝說が残る「竜宮の穴」と呼ばれる横穴があります。
平成十六年三月
都幾川村教育委員会
神社・お寺情報 掲示板
多武峯の文化財
 武藤家のあるこの地域を多武峯(とうのみね)といいます。これは、慶雲三年(七〇六)に大和国磯城郡多武峯(奈良県桜井市談山神社)から藤原鎌足の遺髪を移し、祭神として祀った多武峯大権現が始まりとされています。その後、この地に聖観音を本尊とする福聚寺観音堂が建立されたといいます。また、観音堂領として慶安二年(一六四九)徳川家光より五石の朱印状が下されています。
 この観音堂を管理していたのが武藤家(当時、藤原姓)であり、江戸時代には慈眼坊と名乗る修験道場でした。 慈眼坊は、京都聖護院を本山とする天台系修験の本山派に属し、関東地方の本山派修験の大先達であった入間郡越生郷、山本坊の配下として、外秩父地方の副先達を務めていたといわれています。さらに元禄六年(一六九三)には、聖護院門跡から常陸国筑波郡(茨城県)の內五十箇村の年行事職を認められています。
 武藤家の母屋は十七世紀に建設され、護摩堂を配するなど往時の修験道場の家屋形態をよく保存しています。
 明治二年(一八六九)の布告により修験は廃止されます。神仏分離により観音堂は多武峯神社に改称、慈眼坊は姓を武藤に改め神職となりました。
 このような経緯の中で武藤家は、多武峯の始まりを示唆する瓦塔片をはじめ修験道に関係する数多くの貴重な文化財を所蔵しています。また、多武峯には、天狗や竜宮の穴などの伝說も伝わってます。
主な文化財
瓦塔片と蔵骨器 奈良~平安時代初期(県指定文化財)
板碑群 十四世紀~十六世紀
天文五年銘鰐口 一口 室町時代(村指定文化財)
役行者絵巻 一巻 江戶時代(村指定文化財)
徳川幕府朱印状 観音堂領五石 九通 江戶時代
平成十五年三月
都幾川村教育委員会
例祭日
神紋・寺紋 未登録
更新情報 【 最終 更新者】thonglor17
【 最終 更新日時】2021/04/24 19:59:13
 
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