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参拝日:2019年9月7日 11:59
★★★ 参拝日:2013年8月17日 18:25
小高い丘の上にそびえ建つ、お寺。
参拝日:2023年1月4日 00:00
参拝日:2022年10月27日 09:26
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住所 | 広島県尾道市東土堂町2-8 |
五畿八道 令制国 |
山陽道 備後 |
アクセス | JR山陽本線尾道 徒歩7分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0848-22-7269 |
FAX番号 | 0848-22-7269 |
公式サイトURL | https://www.onomichi-komyoji.com/ |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗西山禅林寺派 |
創建・建立 | 承和年間(834年~847年) |
由来 | 当山は、仁明天皇の承和年間(834年~847年)、慈覚大師円仁によって草創されたと言われています。したがって、もともと天台宗の寺でありましたが、鎌倉時代の末期の建武3年(1336年)2月、足利尊氏が西下のとき、尊氏の従軍僧であった道宗雙救上人(どうそうそうきゅう・しょうにん)が今川貞世とともに人心鎮撫(じんしんちんぶ:※1)のため後詰めとして、当寺に足を止めたとき智海和尚を助け、自らが大願主となり光明寺を再興し、浄土宗へと改宗しました。
その翌年の建武4年(1337年)には、紀州藩雑賀庄海龍寺の僧弘阿和尚によって宗祖法然上人の「御影(法然上人画像:県重要文化財)」が施入され、名実ともに浄土宗の念仏道場として栄え、多くの末寺を有しました。 室町時代には、瀬戸内海村上水軍の将、宮地一族の帰依(きえ:※2)を受け、宮地明光の次男で向島余崎城主であった島居次郎資長(しまずい・じろう・すけなが)は、彼の船中念持仏千手観音(別名:浪分観音(重要文化財))を当寺に寄進し外護(げご)につとめるなど、瀬戸内海の水軍たちの心のよりどころとして信仰を集めていました。 安土桃山時代には、中国地方の覇者毛利氏の信仰も篤く、毛利輝元は広島退城の際に当寺の一空和尚を伴って萩へ移っています。 天正16年(1588年)、豊臣秀吉の「海上鎮圧令」とともに内海水軍の将たちの中には武士を捨てて商人となり、回漕を業として問屋を営んでいました。当寺の檀家となった「唐津屋」「大紺屋」「住屋」「大栗原屋」「鰯屋」など、江戸時代の尾道における政治や経済を動かした豪商たちの外護によって今に至っています。 そして、現在は— 現在の建物は、庫裏が元禄年間(1688年~1703年)に、方丈が享保17年(1732年)、総欅造りの本堂は延享4年(1747年)の再建され、江戸時代には全ての建物が建替えられました。 慈覚大師円仁の草創以来、千百有余年— 道宗雙救上人の浄土門への改宗以来、六百有余年— 念仏道場として、今も浄土宗の法灯を守り続けています。 ※1)人心鎮撫:世の中の人々の気持ちや世の乱れを鎮め、人民を安心させること ※2)帰依:仏や神を信仰し、その力に頼ること |
神社・お寺情報 | 第12代横綱陣幕久五郎の墓と手形の石碑
宝物殿の拝観(拝観料:400円) |
例祭日 | 5月:陣幕茶会 10月第2土曜日:光明寺寄席 11月1日~3日:寺宝展 |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】優雅 【 最終 更新日時】2022/06/25 04:44:17 |