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基本情報
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住所 |
埼玉県さいたま市岩槻区太田1-10-59 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武野田線岩槻 徒歩15分 |
御朱印授与時間 |
|
電話番号 |
048-756-0503 |
FAX番号 |
|
公式サイトURL |
|
御祭神 |
建御名方命 |
創建・建立 |
元和9年(1623年) |
旧社格 |
|
由来 |
諏訪神社の祭神は、岩槻城守護の軍神として信濃国諏訪上社より勧請した建御名方命で、当社は、市内にある久伊豆神社や八幡神社、天満宮とともに城主や家臣の祈願所となっていた。
当社の創立年代は不明であるが、阿部氏在城当時の武州岩槻城絵図では、現在の地にすでにその存在が書かれているので、それ以前か、あるいは岩槻城が築城されたとき、北方に鎮座する久伊豆神社と同様、鬼門除けとして創建されたものと思われる。
当時、神社の運営は大字太田の旧大岡氏家臣を中心とした氏子によって行われていたと伝えられるが、現在は当地区自治会の人々によって行なわれている。
なお、祭礼は毎年八月二十七日である。
(埼玉県・岩槻市掲示より)
諏訪神社<岩槻市太田一-一〇-六一(太田字諏訪小路)>
長禄元年(一四五七)に太田道灌が築城した岩槻城は鶴の形に似ていることから「白鶴城」とも呼ばれ、その周囲には「小路」と呼ばれる城下の町並みが形成された。当社の鎮座する諏訪小路も、そうした侍屋敷の立ち並ぶ町並みの一つであり、城の大手門の南東に当たる。
社伝によれば、当社が、この岩槻城に祀られたのは元和九年(一六二三)のことで、時の城主・阿部正次が、戦が再び始まった時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を勧請したことによる。以後、城主の崇敬が厚く、家臣一同の武術鍛錬の祈願所でもあった。江戸期の祭祀状況については、『風土記稿』には「諏訪社 諏訪小路門の内にあり」と記されているだけであるが、祭事の際に向拝部に掛けられる正福寺のものとされる嘉永七年(一八五四)び垂旗に「当寺廾世法印純海」の銘があるため、神仏分離までは当社の西隣にあった天台宗の正福寺が祭祀を行っていたものと思われる。
このように、当社は岩槻城と深いかかわりがあったため、明治になって岩槻城が廃城となってからは、しばらく放置状態が続き、社殿も荒廃し、祭りも途絶えていたようである。そこで、地元の太田町の有志が浄財を集め、明治十一年に祭事を復活し、明治二十五年には覆屋を茅葺きから瓦葺きに改めた。こうして、当社は地元の神社として新旧住民から広く親しまれるようになり、現在に至っている。
(「埼玉の神社」より)
境内碑
境内碑
御祭神 建御名方命
当社創建の年代はつまびらかでないが旧岩槻
城守護の軍神として信濃国諏訪上社のご祭神
を遷し祭ったもので歴代城主の信仰深く家臣
一同武術鍛錬の祈願所であったと伝えられる
往時は現在内部の祠が社殿であったと思われ
るいつの代か間口三六メートル奥行四五メー
トルのかやぶき雨屋を造りその中に安置した
ものと推定される明治維新後祭事が中断され
ていたところ同十一年(一八七八年)太田町
有志が協議して毎年浄財で集め祭事を復活し
それ以来昭和十年以至るまで囃子神楽(はや
しかぐら)を奉納した記録があり今日まで続
けられている雨屋は明治二十三年瓦ぶきに替
えられ現在に至ったその間数度の修繕例祭な
どの基金源として一三一二平方メートルの社
有地に竹を植栽したその後請われて現岩槻商
業高等学校の前身中部実業学校に貸地しその
借地料老木売却代例祭経費の節約などにより
近年ようやく社の運営が安定するに至ったし
かるに雨屋がはなはだしく腐朽したので建て
替えについてよりより協議の結果貸地を県に
譲渡して新社殿を造営した なお当社運営資
金を確保した上その殘預金よ寄附金補助金に
よって社務所兼自治会集会所を建設するに至
ったことを銘記して後世に伝えるものである
昭和五十四年八月吉日
太田自治会長 倉持 貫撰文
元不動岡高等学校長 松井 潔監修
元川通中学校教頭 高田武夫謹書 |
神社・お寺情報 |
境内掲示板
太田諏訪神社本殿
一、種別 有形文化財(建造物)
二、名称 太田諏訪神社本殿
三、員数 一棟
四、所在地 さいたま市岩槻区太田
一丁目一〇番五九号
五、所有者 宗教法人諏訪神社
六、指定年月日 平成二十六年三月三十一日
七、公開日 毎年八月二十七日
太田諏訪神社本殿は、岩槻区太田一丁目に所在する建造物です。一七世紀前半の建築的特徴をよく残しており、江戶時代前期(一六三九)に遡る数少ない神社建築です。
さいたま市域における神社建築の展開や地域相を明らかにする上で貴重なものであることから、市の有形文化財(建造物)に指定されました。
境内碑
市指定有形文化財(建造物)
太田諏訪神社本殿
太田諏訪神社は、さいたま市岩槻区太田一丁目に位置しています。この付近は、江戸時代には岩槻城の大手門外に広がる「郭内」武家地として、岩槻城家臣団の武家屋敷ゾーンでした。当社の創建を直接物語る史料はないが、江戸時代前期の岩槻城主阿部正次が勧請したとも伝えられています。
当社に関わる史料上の所見は、寛永一六年(一六三九年)の古文書に「すわ下」という小名があり、この諏訪神社の存在を前提とした地名であることから、この年までには太田諏訪神社は存在していたことになります。
本殿は一間社流造で、屋根は栩葺です。井桁状の土台上に立ち、身舎柱は円柱前面一間の向拝柱は角柱です。絵様の渦の彫刻は一七世紀前半の様相を呈しています。栩葺きとは屋根材が非常に厚いものをいい、市内ではあまり例がありません。当社の修理に関する史料を欠くが、向拝中備の蟇股が雲状のものに取り替えられるなど、数度の修理が加えられていますが、明治二五年(一八九二年)に雨屋を瓦葺に葺き替えた記録があることから、それ以前から覆屋に納められていたと考えられ、良好な状態で保存されています。現在は、鉄筋コンクリート造の覆屋の中に納められています。
この本殿は、一七世紀前半の建築的特徴をよく残しており、さいたま市域における神社建築の展開や地域相を明らかにする上で、貴重な遺構といえます。また、岩槻城に関わる建築で江戸時代前期に遡る遺構は極めて乏しく、この本殿はその数少ない現存する建築であります。
平成二十七年二月吉日
太田諏訪神社 宮司 馬場裕彦
総代 荻原 薫
総代 福田良一
境内碑
記
以前の大鳥居は昭和二十六年一月吉日境内の杉の木で建立されましたが、(沓石は当時のもの)長年の風雨に耐えず、ここに平成五年十二月吉日石鳥居に再建す。
太田自治会長 河津頴修謹書
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例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2023/02/04 18:53:02
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