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基本情報
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住所 | 埼玉県新座市道場1-10-13 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 西武池袋線保谷 徒歩34分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0484784435 |
FAX番号 | |
公式サイトURL | https://www.hodaiji.or.jp/ |
御本尊 | |
宗派 | 浄土宗 |
創建・建立 | |
由来 | 境内掲示板
片山法臺寺 創建は明らかではないが、法臺禅定尼(承久元年没)の菩提を弔うため開山、時宗の念仏道場として、他阿真教上人が礎を築いた。中興開山は普光観智国師(存応上人)である。 国師は法臺寺より出家、修学の後、増上寺第十二世住職となった。徳川家康公が江戸入城の折、国師と師檀の関係を結び、法臺寺は、現在の浄土宗に宗旨替えとなったといわれている。国師は家康公に臨終の十念を授け、導師として葬儀を執行したことでも有名である。 法臺寺には、本尊の阿弥陀如来像、観智国師像などの貴重な文化財がある。また、鎌倉~室町期の板碑群及び、他阿真教上人像が県指定文化財となっている。本堂裏には、江戸末期に盛んであった富士講(富士山信仰)の富士塚が築かれている。傍らの石碑には、北は入間郡、西は所沢・清瀬・東久留米、南は練馬・板橋にわたる二十五か町村の名がある。片山村からも多くの先達が現れ、この講がいかに盛大であったかが窺える。 平成二十八年三月 新座市教育委員会 |
神社・お寺情報 | 境内掲示板
埼玉県指定有形文化財 彫刻 木造他阿真教上人坐像 平成九年三月十八日指定 黒目川沿いに古くから開けた片山の地に、鎌倉時代になると時宗という新しい仏教信仰が伝わりました。 時宗は一遍上人智真を開祖とする宗派で、阿弥陀仏の救済により、西方極楽浄土に往生することを願う浄土信仰の一つです。踊り念仏や念仏札を勧めながら諸国を行脚し、定住の地を持たなかったため、遊行上人と言われました。 他阿真教上人(一二三七〜一三一九)は、一遍上人より二年年長の弟子で、一遍亡き後は、第二祖として時宗教団を統率していき、教化の拠点として各地の「道場」に門弟を送り、定着させました。 他阿上人は、徳治元年(一三〇六)九月から翌年春までこの地に滞在したとされます。これが、後に法台寺の基となったのです。 「他阿上人和歌集」には、片山の地名や、寺名(法の台)が詠む込まれています。 「木造他阿真教上人坐像」は、胸前で両手を合掌する等身大の木造坐像で、本堂に安置されております。他阿上人の晩年の風貌を写実的に表現し、深い人間性をたたえております。 像高八十三・七cm、寄木造、玉眼、彩色が施されています。十四世紀後半、南北朝時代の特色を残す貴重な肖像彫刻です。 平成十一年三月 埼玉県教育委員会 新座市教育委員会 境内掲示板 埼玉県指定有形文化財 法台寺板石塔婆 昭和四十二年八月二十八日指定 法台寺は、鎌倉時代には時宗の道場で、遊行二世他阿真教上人の開基と伝えられている寺院です。 ここに所在する県指定の板石塔婆は全部で十基あり、内訳は六字名号のもの八基、種子のもの二基で、他に致得(至徳の私年号)元年銘の六字名号板石塔婆が一基あります。 六字名号の板石塔婆は、鎌倉時代の正和二年(一三一三)をはじめとして、至徳元年(一三八四)までの約七十年間に及んでいます。いずれも字体は時宗系の楷書体で、時期により多少の相違はありますが、彫りの深いものです。銘文に「是一房往生」「作阿弥陀仏往生」などと刻したものがあり、その紀年銘は、没年時を表わすもので墓塔的な意味合いも含んでいます。 一方、阿弥陀三尊種子板石塔婆は、二基とも全く同一の形態で、紀年銘についても「元享二年壬戌十月日」と刻まれていますが、一基は「沙弥道阿為逆修也」、一基は「藤原氏女為逆修也」とあって夫妻の逆修のために造立したことがわかります。彫りもこの時期の特徴をよく表わし、特に天蓋は、簡素ながら形のよく整ったものです。 平成元年三月 埼玉県教育委員会 新座市教育委員会 法台寺 境内掲示板 新座市指定民俗文化財(有形) 「片山富士」 令和二年三月二十四日指定 片山富士は、富士講講徒のため、富士山を模して人工的に築かれた富士塚(擬岳)である。 富士講は富士山への登拝を目的とし、信仰と娯楽を兼ねた組織であり、江戸(文化~文政)時代、庶民に急速に浸透した。講において、選ばれた講員が富士山に代理参拝する。選に漏れた講員や登拝できない老人や子どもにまで、登拝体験ができるように、と考案されたのが富士塚であると言われている。 中沢村の浅海吉右衛門(不詳~一八四四、行者名蓉行芙厚)の生涯は明かではない。富士講を開き、自らの名を冠し「丸吉講」と称した。当時、過酷な環境の中、たびたび富士山登拝を成功させ、村民から大いに崇敬された。多くの信者が集い、当地を中心に分講が組織され、吉右衛門の名は近在に広く知られるようになった。 山内には吉右衛門が三十三度の登拝大願を成就した記念として、天保二(一八三一)年の逆修(生前供養)塔が建立されている。 富士塚の概要 高さ 約7.2m 直径 約35.3m 形状 円墳 令和三年三月 新座市教育委員会 境内掲示板 市指定有形文化財 木造観智国師坐像 貞蓮社源誉上人普光観智国師存応慈昌大和尚(一五四四~一六二〇)は、武州多摩郡由木に武士の次男として出生、 十歳の時、片山法臺寺の蓮阿上人に入門、出家した。後に、感誉存貞上人に師事、浄土宗門を究め、増上寺第十二世住職となった。徳川家康公の帰依を受け、慶長十五年、後陽成天皇から普光観智国師の勅を賜った。 本像は、国師の晩年か没後追慕像として製作されたと推定される。坐して胸前で合掌する姿は、時宗の上人像の形式であり、浄土宗の高僧の遺影と合致しない部分もあるが、国師が法臺寺で時宗を学び、後に浄土宗の指導者となった経緯をふまえたと解釈される。等身大をやや上まわる一上人の肖像が、古法に則り、破綻なく堅実丁寧に仕上げ られており、江戸時代初頭の肖像彫刻の力作として高く評価される(像高八四・五cm) 平成二十八年三月 新座市教育委員会 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】thonglor17 【 最終 更新日時】2025/09/27 15:35:21 |