2.0
青龍山最勝寺
(さいしょうじ)
埼玉県入間郡越生町大字堂山287
みんなの御朱印
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(ソーマさん)
 68
御朱印日:2024年4月8日 17:16
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(ソーマさん)
 72
御朱印日:2024年4月8日 17:15
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(なまむぎさん)
 27
御朱印日:2022年2月23日 00:00
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(あすべすさん)
 29
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(あすべすさん)
 31
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みんなの参拝記録
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
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参拝日:2025年6月14日 07:06
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(zx14rさん)
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★
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 98
参拝日:2024年7月6日 13:04
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(ソーマさん)
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 47
参拝日:2024年4月8日 11:40
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(なまむぎさん)
おすすめ度:
0
 58
参拝日:2022年2月23日 00:00
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 27
参拝日:2021年1月5日 12:00
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0
 131
参拝日:2012年3月14日 00:00
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県入間郡越生町大字堂山287 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR八高線越生 徒歩36分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0492922439 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
真言宗智山派 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
「最勝寺縁起」
当山は建久三年(一一九三年)源頼朝公が則使大名であった家来の児玉雲太夫に命じて創建し領地を与え祈願所とした。第一世住職は高僧頼栄和上で佛法興隆に尽くし、その後天文年間に戦禍にあい、堂搭伽藍が灰となった。しかし現存の表門と大御堂は火災を免れて、四天王尊、持国天、増長天、広目天、多聞天が祭られ鎮護国家の道場として栄えたと伝わる。
大御堂の名称は当時将軍直創のお堂のことを言ったのである。又、表門の正面見込みの龍の彫刻は左甚五郎の作と言われ浄麗荘厳を極めたといわれ、後に第十六世登観和上が伽藍を再興(弘治二年 一五五六年)したが、明治四十一年四月二十一日に又々火災に遭い、本堂、庫裏等焦土と化したが大正十二年中興開山第二十八世隆全和上が伽藍その他を再興し現存に至っている。
本尊は十一面観世音で修羅界(争いのある世の中)を済度(救う)する佛様である。又、弁慶の引き鐘(現存西国三井寺)の元存の寺とも伝承され、昭和五十一年六月に当山第二十九世隆聖並び壇信徒各位の協力により往時をしのび古来より伝承される地名入り童歌を梵鐘に刻み鐘楼及び梵鐘を再興し夕べの鐘の音を告げている。
境内掲示板
最勝寺 越生町堂山
最勝寺は建久四年(一一九三)、源頼朝が、崇敬していた慈光寺(ときがわ町)参詣路の要所に位置する当地に、家臣の児玉雲太夫に命じて建立させたと伝えられている。最勝寺東方の字堀之内に「児玉雲太夫の墓」と呼ばれている五輪塔があり、塔下からは中世常滑焼の蔵骨器が見つかっている。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』に、「青龍山と号す、新義真言宗、今市村法恩寺の末山なり、往古は天台宗にて西照寺と書きたるよし」と、かつて堀之内にあった大御堂の西方に当たるため西照寺と称し、東方には東福寺という寺があったことが記されている。堂山の地名の起こりとされる大御堂は、現在は最勝寺の境内にあり、平安仏の木造釈迦如来像と四天王像、鎌倉仏の木造阿弥陀如来像が安置されている。
元禄十三年(一七〇〇)建立の山門のたもとにある、大日如来と六地蔵が彫られた石仏は、近くの辻から移設されたもので、「右志かう/左あまてら」の文字が、慈光寺と子の権現(飯能市の天龍寺=通称あまてら)の方角を示している。
また、朝夕の時を告げている梵鐘は昭和五十一年の鋳造で、「どこ堂山の最勝寺」で始まる、一円の地名を織り込んだ、古くから伝わる俚謡が刻まれている。
令和二年四月三十日
越生町教育委員会 |
神社・お寺情報 |
越生七福神・福禄寿
入比坂東三十三ヶ所観音霊場27番
境内掲示板
医聖 田代三喜
田代三喜は、寛正六年(一四六五)四月八日、現在の越生町大字古池田代に生まれた。祖先は、伊豆の田代信綱といわれ、その子孫は代々医術を業とし、父兼綱の代になり武蔵に移った。
十五歳の時、臨済宗の寺に入って僧となり学問を修め、長享元年(一四八七)二十三歳で明国に渡り、李・朱医学など、当時の進んだ医学を修得した。その間十二年、その頃すでに日本から明国に渡り、名医として知られていた月湖について学んだ。明応七年(一四九八)多くの医学書を携えて帰国した。
初め鎌倉の円覚寺内江春庵に居を定めたが後に足利成氏(古河公方)の招きにより、永正六年(一五〇九)古河に移り成氏の主治医となった。古河にいること数年にして、武蔵に帰り、以来関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。
享禄四年(一五三一)二十五歳の曲直瀬道三は、三喜に会って医学を志し、その門下に入った。 三喜は、道三をよき後継者とし一切を傾けて指導し、死期近い病床でなお口述を続けた。道三は感動し、硯に落ちる涙で墨をすって記録したという「涙墨紙」が残っている。
本邦後世派医学の開祖であり、医聖と仰がれていたが、天文十三年(一五四四)四月十五日に病を得て没した。年七十九。
梵鐘
何処堂山最勝寺
鐘を津久根の成瀬村
大谷へ舞く高野倉
熊井熊井と思えども
大豆戸に小用がある故に
赤沼走りて北浅目
云々
古童べ歌より |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2025/06/14 20:24:03
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