みんなの御朱印
(ソーマさん)
37 御朱印日:2024年10月26日 16:11 |
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(ねこひめさん)
35 御朱印日:2024年10月13日 15:59 |
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(ねこひめさん)
35 御朱印日:2024年10月13日 15:59 |
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(ねこひめさん)
9 御朱印日:2024年10月13日 15:59 |
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(mwsmws22さん)
66 御朱印日:2024年4月27日 00:00 |
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(パクオさん)
52 御朱印日:2023年12月9日 13:12 |
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(かつちゃん2さん)
23 御朱印日:2023年2月28日 00:00 |
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(thonglor17さん)
21 御朱印日:2022年4月2日 09:14 |
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(なまむぎさん)
25 御朱印日:2022年2月15日 00:00 |
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(ひのきさん)
21 御朱印日:2022年1月26日 20:15 |
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住所 | 埼玉県飯能市飯能1329 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス | 西武池袋線飯能 徒歩16分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0429734128 |
FAX番号 | 0429745346 |
公式サイトURL | http://noninji.net/ |
御本尊 | 毘盧遮那仏 |
宗派 | 曹洞宗 |
創建・建立 | 文亀元年(1501) |
由来 | ・ 室町中期文亀元年(1501)、飯能の武将中山家勝が名僧斧屋文達を招いて小庵を結んだのが始まりとされている。天正元年(1573)家勝の子・家範が父の冥福を祈る為本格的な寺院を創建し、家勝・家範・照守および、その後の中山氏・黒田家の菩提寺となる。
・ 家範の子・照守は徳川家康に引立てられ、家康の庇護のもと多くの雲水をかかえる寺院に発展した。 ・ 家範没後百年ほど後、寺堂を再建したのは、黒田直邦である。徳川綱吉の館林時代の家老職にあった直邦は、十三世住職泰州廣基と共に、将軍家の後ろ盾により、宝永二年(1705)に山門・大殿・庫裏と改修を行い、伽藍を完成させた。 ・ 明治維新時の飯能を舞台とする「飯能戦争」では、幕臣の一部で結成された彰義隊の頭取であった渋沢誠一郎は内部対立のため振武軍を結成し、能仁寺を本陣とした。慶応四年(1868)に官軍の一方的な攻撃により、本陣であった能仁寺は焼失した。 新編武蔵風土記 武陽山ト號ス曹洞宗ニテ文龜年中斧屋文達禅師開山開祖ニシテ弘治三年丁巳三月晦日寂ス開基ハ即チ今ノ檀那黒田豐前守ノ先祖丹治山中勘解由左衛門尉直勝(一ニ家勝ニ作ル)法謚ハ能仁寺殿大年全椿大居士ト稱ス天正元癸酉七月廿五日卒ス二世格翁桂逸禪師ニ至リ初テ越生ノ龍隠寺ニ屬ス三世材室天良禪師四世格外玄逸禪師ニ至ルマテ勅特賜禪師號天正十九年寺領五石ノ御朱印ヲ賜フ元祿十年常憲院殿ノ御世ヨリ獨禮ノ命ヲ蒙リ同十三年寺社奉行及永平天梁禪師ニ請テ叢林トナル此寺初メ五石ノ御朱印ナリシカ寛永二年改テ十ノ字ヲ加ヘテ五十石ノ御文面ヲ賜ハル住僧モマタ乘輿ノ格トナル末寺廿ヶ寺アリ其餘ツマヒラカナルコトハ下ニ書セル寺記ニ見エタリ文中ニ此寺創建ノ事實寺記ニハ家範府君ト記シ鐘銘ニハ家勝府君ト勒ス其文ノ異ナル所以ヲ尋ルニ鐘銘ニ家勝府君創建トスルモノハ國家ノ珠恩ヲ蒙リ創建ノ功徳ナルヲモテ懿徳ヲ其先考ニ推シ及ホス孝思ノ厚キユヘナリトソ云 武州能仁寺記(長文の漢文寺記は略す) 惣門 山門 武陽山ノ三字ヲ扁ス遍照金剛一品公辨親王書之元祿十丁丑年八月廿五壬申日トアリ表ノ方ニハ二天ヲ置 本堂 能仁時ノ三字ヲ扁スコレモ前天台座主一品公辨親王書元祿十年八月十六癸亥日トアリ本尊寶冠釋迦脇士ハ文殊普賢ノ二尊ナリ 方丈 小方丈 庫裡 禅堂 本尊出山釋迦木ノ立像ニテ長二尺二寸弘法大師ノ作也ト云 江湖寮 本尊阿彌陀 衆寮 本尊楊柳觀音 首座寮 靈座 黒田氏曆世ノ位牌アリ 鐘樓 寶永年中鋳造セル鐘ナリ 能仁時鐘銘(長文の漢文鐘銘は略す) 寺寶 伽羅木觀音一体 金襴ノ袈裟一顆 明板薄紙摺四書小本五冊 論語ニハ全編常憲院殿手ツカラアソハセシ朱點アリ以上ノ三品ハ十三世泰州カトキ賜ハリシト云 丹生明神社 愛宕社 金毘羅社 秋葉社 白山社 |
神社・お寺情報 | ●寺宝 ・出山の釈迦像 ・伽藍観音像(桂昌
院の寄贈) ・鐘楼(人間国宝 香取 正彦氏鋳造) ・山門仁王像(鏡恒夫 氏製作) ・蓬莱庭園 ・石灯籠 境内掲示板 飯能戦争 慶応四(一八六八)年正月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、「朝敵」となって江戸に戻った徳川慶喜、上野の寛永寺に謹慎した。一橋家の家臣を中心とする旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと「彰義隊」を結成し、上野の山に入った。しかし彰義隊の頭取であった渋沢成一郎は、副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、五月初旬に田無村(西東京市)で「振武軍」を結成する。三〇〇人ほどとなった振武軍は、田無で周辺の村々から四千両を超える軍資金を調達し、箱根ヶ崎村に移った。その後、新政府方の攻撃を受けた彰義隊の援軍に江戸へ向かったが間に合わず、田無で上野戦争の残党などと合流して、五月一八日飯能の町に現れた。振武軍など旧幕府方は、能仁寺を本営に、智観寺・広渡寺・観音寺など六つの寺に駐屯した。 一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・佐土原・岡山の五つの藩に旧幕府方の追討を命じ、これらの藩兵は五月二二日扇町屋(入間市)に入った。そして翌二三日未明、笹井河原(狭山市)で旧幕府方と佐土原藩兵が遭遇して戦争が始まり、午前六時頃には飯能の町も戦場となった 。この結果、二〇〇軒の民家と能仁寺、智観寺など四つの寺が焼失し、飯能を舞台にした戊辰戦争(飯能戦争)は、わずか半日ほどで新政府方の勝利に終わった。 境内碑 唱義死節 振武軍之碑 従四位子爵澁澤敬三題額 明治元年一月三日鳥羽伏見の戰敗れ前將軍德川慶喜公江戸に還るや麾下の舊臣悲憤激昂し物情騒然たり 澁澤成一郎天野八郎本多敏三郎等乃ち相謀り尊王恭順有志會を組織して將に大に成す所あらんとし隊を編して彰義と號し上野東叡山に據る 偶々首領の間方略の意見相合はず是に於て澁澤成一郎等は天野等一派と分れ其族尾高惇忠澁澤平九郎等と別に一隊を組織し江戸の西郊田無村に屯せり之を振武軍と稱す 五月十五日上野彰義隊の敗報傳はるや振武軍亦走って飯能に到り能仁寺を以て本營と為し徐に後圗を講ぜんとす 既にして官軍の軍監尾江四郎左衛門鹿兒島福岡大村等諸藩の兵を率ゐて川越城に入り部署を定め二十二日三面より來り攻む 交戰二晝夜兵火全市を葢ふ振武軍の本營亦火を發し将士或は死し或は逃る 參謀澁澤平九郎狀貌魁偉武技に長す單身奮闘圍を衝いて走り黑山村に至る路塞りて通せず遂に此處に自刀せり 嗚呼尾高惇忠は予の祖父たり平九郎は祖父の弟にして澁澤青淵翁の義子たり澁澤成一郎亦祖父の從弟たり 當年の事予豈之を言ふに忍びんや 抑々彰義振武両隊の擧たる其跡自ら順逆の大義を誤れるに似たりと雖も素より王師に抗し私を為す所以に非ず 諸士皆年壯氣鋭にして唯其事ふる所に忠ならんとする一片耿々の念已む能はずして此に至れるものなり 而して前途大に為すあるの身を以て空しく命を砲煙の間に殞す其志洵に哀むべし然りと雖も今や 皇運隆昌稜威赫々として八紘に輝き德川氏一門亦皆顯要に列し蹇々として 聖化を贊く 諸士の幽魂泉下に知るあらば常に以て瞑すべきなり 頃者飯能の郷人碑を天覧山の麓に樹てゝ振武軍の事蹟を不朽にせんとし文を予に嘱せらる義不文を以て辭べからざるものあり乃ち筆を執りて其梗概を叙すと云 昭和十二年五月二十三日 尾高豐作撰並書 |
例祭日 | |
神紋・寺紋 | 未登録 |
更新情報 | 【
最終
更新者】zx14r 【 最終 更新日時】2025/02/01 12:06:36 |