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慈了山覚源院清泰寺
埼玉県さいたま市緑区大牧586
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★★
0
 31
参拝日:2024年3月16日 06:36
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基本情報
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住所 |
埼玉県さいたま市緑区大牧586 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
JR武蔵野線東浦和 徒歩18分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0488731520 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
天台宗 |
創建・建立 |
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由来 |
境内掲示板
清泰寺
所在地 さいたま市大字大攸
清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定有形文化財)。
境内に並ぶ三五一基の庚申塔は、天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。また、ここにある武田信玄の娘見性院の墓は県の旧跡に指定されている。
見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和八年(一六二二)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸松丸(後の会津二三万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
また、本堂須弥壇に安置されている有泉勝長木牌も市指定有形文化財である。有泉家は勝長の弟五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したといわれている。
昭和五十八年三月
さいたま市
新編武蔵風土記稿
足立郡大牧村
淸泰寺 天台宗中尾村吉祥寺末 慈了山覺源院ト號ス 當寺ハ武田信玄ノ女穴山梅雪ノ後室見性院尼ノ因ミアルヲ以テ會津家ノ檀越ナリト云 コノ尼甲州歿落ノ後台命ニヨリ江戶御城ニ移リ 後田安ノ御屋敷ニ居住シ 大牧村ノ內ニテ三百石ノ領地ヲ賜レリ 然ルニ慶長十八年三月二日幸松君三歲ノ御時故アリテ見性院尼ニ養ハレ給ヒ共ニ田安ノ御邸ニ居住セラレタリ 元和三年幸松君ハ保科家ヲ嗣セラレ 肥後守正之君ト稱シ奉リ 寬文十二年十二月十八日逝シ土津神社ト神號セリ 見性院尼ハ元和八年五月九日卒去シテ當寺ニ葬レリ 當寺ノ草創ハ慈覺大師ニシテ則大師ヲ開祖トナス 中興ハ俊圓ト云元祿十二年九月十一日示寂ス 本尊ハ十一面觀音ノ立像ニシテ長三尺許 慈覺大師作ノナリトイヘリ
觀音堂 十一面觀音ヲ安ス 見性院尼ノ位牌堂ナリ
見性院尼墓 墓所ノ傍ニ文化年中會津家ヨリ建シ石碑アリ其文左ニノス
見性院殿武田甲斐守機山公信玄之女。穴山梅雪之夫人。穴山氏嗣絕。臺廟以足立郡大牧邑爲湯沐邑。元和八年五月九日終干東都。葬邑之淸泰寺。會津土津公幼承撫育之恩。追慕不巳。寬文十一年買田若干付淸泰寺。使歲時作佛事而薦冥福也 |
神社・お寺情報 |
月待供養 元禄九丙子天九月吉祥日(1696)
境内掲示板
清泰寺の文化財
県指定旧跡
見性院の墓
昭和三十六年九月一日 指定
見性院は、武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われていました。そして二代目将軍秀忠に男子幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
見性院は、元和八年(一六二二)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政五年(一八五八)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。
市指定有形民俗文化財
清泰寺の庚申塔
昭和三十六年三月三十一日指定
清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔三百四十九基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔一基、自然石の庚申塔一基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
三百四十九基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「庚申五拾ヶ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。これらにより、三百四十九基は天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)とに奉納されたものであることがわかります。ただし、三百四十九基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
庚申塔の寄進の範囲をみると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉にまで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。
◎清泰寺にはこの他にも次の四件の文化財があります。
市指定有形文化財(彫刻) 木造十一面観音立 昭和三十六年三月三十一日指定
市指定有形文化財(工芸品) 半鐘 昭和六十二年三月三十一日指定
市指定有形文化財(工芸品) 見性院霊廟三具 平成元年三月二十七日指定
市指定有形文化財(歴史資料) 有泉勝長木牌 昭和五十一年三月三十日指定
(境内の説明板をご参照下さい)
平成十四年十月
宗教法人清泰寺
さいたま市教育委員会
境内掲示板
清泰寺の有形文化財
市指定有形文化財(彫刻)
木造十一面觀音立像
昭和三十六年三月三十一日指定
木造十一面観音立像は清泰寺の本尊で、十二年に一度の午年にご開帳されます。像高百二十二・〇cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼など後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。
緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。
市指定有形文化財(工芸品)
半鐘
昭和六十二年三月三十一日指定
この半鐘は銅製で、総高六十四・五cm、口径三十七・六cmです。毛彫りされた銘文から、宝永七年(一七一〇)に清泰寺に納められたもので、江戸神田の鋳物師粉河市正が鋳造したものであることがわかります。
総高に対して口径がやや広めですが、形の整った仕上りのよい半鐘です。制作年、鋳物師名の明らかな近工芸品として貴重なものです。
市指定有形文化財(工芸品)
木造十一面観音立像
見性院霊廟三具足
平成元年三月二十七日指定
三具足とは、香炉、花瓶、燭台からなる仏具です。清泰寺の三具足には三基とも毛彫りの銘文があり、寛政元年(一七八九)に会津藩主により見性院霊廟に寄進されたものであることがわかります。いずれも真鍮製で、時代を反映して本体は簡素ですが、香炉の蓋に獅子、花瓶と燭台にはそれぞれ一対の揚羽蝶の飾り金具がつきます。
保存状態がよく、制作年などの由来が明らかな金工品として貴重なものです。
市指定有形文化財(歴史資料)
有泉勝長木牌
昭和五十一年三月三十日指定
有泉勝長は会津藩士で、清泰寺ゆかりの主保科正之より三百石を与えられていました。この木牌は、勝長の三十七回忌にあたる元禄十六年(一七〇三)に、勝長の娘婿勝隆が清泰寺に納めたものです。ケヤキ製で総高八十四・六cm、正面に勝長の法名などが刻まれています。また他の三面には、武田信玄、穴山梅雪、見性院、徳川家康、秀忠、保科正光、正之、勝長などの事績を詳細に記す牌譜が刻まれています。
平成十四年十月
宗教法人 清泰寺
さいたま市教育委員会
鐘銘
慈了山清泰寺は慈覚大師の開創なり
宝暦六年亮純大和尚鋳造の梵鐘は昭和十八年太平洋戦に応供妙響の絶ゆること久し
今茲に檀信一致浄資を募り新鋳し再び妙音を聴くことを得たり
願くは結縁の道俗離苦開迷の梵鐘により上求菩提を得証せんことを
由て旧梵鐘の銘を再刻して後世に傳う
境内碑
見性院殿追憶之碑
內閣調査局調査官
正五位勳四等 飯沼一省篆額
見性院殿ハ武田信玄公ノ女ニシテ穴山梅雪ノ室ナリ梅雪歿シテ後德川家康公ニ養ハレ足立郡大牧郡ヲ食邑ニ給セラル二代將軍秀忠公ノ四男幸松丸ヲ撫育シテ功アリ幸松丸ハ會津藩主松平氏ノ祖保科正之公ナリ元和八年五月見性院卒スルヤ此ノ地淸泰寺ニ葬リ寬文十一年正之公圭田ヲ附シ佛事ヲ怠ザラシム
昭和五年三月其ノ墳墓ハ縣ヨリ史蹟ノ指定ヲ得保存金若干ヲ交付セラル同九年舊會津藩出身ナル飯沼一省氏ノ本縣知事ニ赴任スルヤ同志ト共ニ展墓セラレ翌十年五月十二日追薦法要ヲ行ハレ舊藩主子爵松平保男伯爵山田英夫兩氏ヲ始メ舊藩士多數ノ參拜アリテ親シク其ノ靈ヲ慰メラル松平子爵家ハ畏クモ 秩父宮妃殿下ノ後生緣ニシテ本村ニソノ關係深キ史蹟ノ存スルコトハ實ニ光榮トスル所ナリ仍テ尾間木村史蹟保存會ヲ設立シ村會ト謀リ墓域ヲ修理シ境地ヲ莊飾シ以テ見性院殿ヲ永久ニ追憶セント之ヲ石ニ勒シテ後世ニ傳フ
埼玉縣史編纂囑託 稻村垣元撰
埼玉縣師範學校敎諭服部誠一書
昭和十一年六月
境内掲示板
埼玉県指定旧跡
見性院の墓
指定年月日昭和三十六年九月一日
見性院は武田信玄の娘で、武将穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けました。
慶長十六年(一六一一)五月二代将軍秀忠に第四子幸松丸が誕生(母はお静の方)すると、見性院はその養育にあたりました。幸松丸は七歳で高遠(長野県)の城主保坂正光の養子となり、のちに保坂肥後守正之と称しました。家光の時代には山形からさらに会津(福島県)二十三万石の藩主となり、兄家光をたすけ幕政に参画するようになりました。保科正之は会津松平家の祖となりました。元和八年(一六二二)五月九日、見性院は没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また、正之は養母の死をいたみ、寺境内に霊廟をつくりました。
元禄期になり、保坂正容のとき松平の姓と三つ葉葵の紋が許されました。霊廟はこわれてしまったので門扉のみがここに残され、また、墓標のケヤキも倒れてしまったので安政四年(一八五七)会津藩により墓石が建てられました。
昭和五十九年十月
清泰寺
浦和市教育委員会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
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最終
更新者】thonglor17
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最終
更新日時】2024/03/17 09:17:06
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