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みんなの参拝記録
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★
0
29
参拝日:2023年8月26日 09:21
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県熊谷市妻沼2485 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武小泉線西小泉 徒歩52分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
0485881815 |
FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御本尊 |
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宗派 |
曹洞宗 |
創建・建立 |
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由来 |
新編武藏風土記稿
幡羅郡妻沼村
瑞林寺 曹洞派禪宗上野國山田郡矢場村惠林寺末祥興山ト號ス 開山ハ本寺第五世大庵文恕ニテ大河內孫十郞政信開基ス 文恕ハ慶長六年十二月二十五日寂シ政信ハ貞和四年五月二十三日卒シ瑞光院來阿大禪定門ト追號スト卽境內ニ其墓アリテ五輪ノ塔ヲ立銘ニ來阿大禪定門トノミ彫タリ 按ニ政信ノ卒ヲ貞和四年ト云事疑フヘシ 慶長年中當所ニ陣屋アリテ大河內孫十郞及ヒ金兵衞等住シテ此邊ノ事ヲ指揮セシ由村民モ傳ヘタレハ 恐クハ政信ハ慶長頃ノ人ナルヲタマタマ墓所ニ古キ塔アルヲモテ推當ニ政信ノ墳トイヒ出タルナラン 殊ニ開山ノ僧慶長六年ノ寂ナレハ開基ノ人モ同時ナル事知ヘシ 本尊釋迦ヲ安置ス 鐘樓 正德四年鑄造ノ鐘ヲ掛ク
境内碑
本堂再建記念碑
駒澤大學長文學博士忽滑谷快天篆額
祥興山瑞林寺は建久年間の開創に係る天台の巨刹にして當時の蘭若宏壮を極めたりしか永仁三年刀水汎濫して悉く河伯に奪はる爾来星霜三百有餘慶長三年上毛恵林寺五世大庵文恕禪師來りて大に堂塔を修造し宗を曹洞に改めて開祖となり法燈連綿十餘代に閲す天保九秊二月祝融に災せられて梵宇復た烏有に歸し寺門甚た衰頽せり明治初年太宗和尚十五世を董し假庵を起し寺産を治めて中興の業を遂く現董無學和尚其後を承けて拮据實に四十餘年假設の堂宇漸く雨蝕するや檀信の協力を以て之か再建を發願し今茲遂に其竣鳴を告く予隣刹に在り窃に之を慶ひ仍て需に應えて文を勒し偉功を不朽に傳ふと云爾
維持昭和三戊辰秊十月吉祥日
觀淸現住苾蒭無文撰並書 |
神社・お寺情報 |
境内碑
瑞林寺客殿改修庫裡新築記念
當山は建久年間天台宗寺院として創建されるが慶長三年開山大庵文恕大和尚により曹洞宗祥興山瑞林寺に改められて以来、平成十年開創四〇〇年を迎え平成十三年に開山正当四百回忌の勝縁を得る
この機に当たり檀信徒一同記念事業を発願し現今の生活様式、住宅事情に対応すべく新たな 菩提寺整備として庫裡を客殿「瑞光閣」に大改修し伴って庫裡一棟を物置と共に新築す
此に當山の伽藍愈々合い整い 平成十一年五月二十五日落慶式開山四百回忌を厳修し報恩の誠を表す (総工費九八、八九〇、七〇〇円)
平成十二年四月吉日
當山十九世晴府代
境内碑
瑞林寺本堂改修記念
瑞林寺本堂改修の記
瑞林寺本堂は昭和三年の建立以来星霜五十年太平洋戦争中の刀水橋爆撃の爆風により屋根の損傷甚だしく幾度か小修理せるも効果なく 雨漏りのため天井板の腐食までに至る
今般担徒一同本堂改修を発願し 土葺瓦を三州瓦に葺替壁塗替天井張替をなし 更に東司の水洗化庫裡増築の付帯工事を施す
総工費一一一四万円 是に撰文してその要を録す
昭和五十二年三月吉日
当山十八世 邦晴代
境内掲示板
俳匠有磯庵五渡三代の墓
初代五渡は名を定七と言う。宝暦三年(一七五三)大里郡代村(現熊谷市代)に生まれ、愚禅禅師に就いて学を修め五渡の法名を戴く。長じて妻沼中宿の大和屋の養子となり大五渡と称した。五渡は俳句を能くし、生涯を俳諧の道に精進。「早稲の香や分け入る右は有磯海」なる芭蕉真筆の短冊を手にしたことから庵名を有磯庵と号した。文化八年(一八一一)隠居して家業を息子理兵衛に譲り、自ら五翁と称し、同九年七月聖天山境内に、高さニメートルに及ぶ石柱を用いて、「稲津まや闇の方行く鵁鶄の聲」桃青の句碑を建立した。その後も更なる俳諧の道を 求めたが文政三年(一八三〇)八月二十一日没す。享年六十八才。
二代五渡は名を理兵衛と言い天明五年(一七八五)妻沼中宿大和屋の長男として生まれる。長じて家業の大和屋を継ぐ傍ら俳号を五渡と称し二代目を継承して俳諧の道に入る。文化九年(一八一二)七月五日、芭蕉翁の稲津まの句碑建立にあたり可良久・五楼らと共に協力。文政九年 (一八二六)四月十日、志なかばにして没す。享年四十二才。
三代五渡は名を定七と言い文化十二年(一八一五)七月二代目五渡の長男として生まれる。十二才の時、父を失い妻沼上宿の親戚鈴木家に預けられ、成人して大和屋を継ぐ。父祖の有磯庵五渡の俳号を名乗り、晩年は釣々翁とも称して益々俳諧に尽力、芭蕉俳句に熟達する。また俳画を能くし、各地を吟行、門弟楓九と『皐月紀行』を記す等の活躍から有磯庵五渡の名声いよいよ広まり各地の俳人たちは『妻沼詣』と称して来妻するなど、この地方の俳句界の牛耳をとった。また、地元の寺門静軒、羽鳥可良久、鈴木交陵らの文人との親交も厚く、聖天山境内の稲津ま句碑に隣接して『雉子塚の碑』を建立した。明治八年(一八七五)十一月十二日没す。享年六十一才。瑞林寺先塋に眠る。
五渡の句
春風や客おくり出す竹の門
里寺や若葉にくらき料理の間
旅人の帰る日ありて秋の風
旅空や雪の朝日にせつかれる
妻沼地域文化財調查研究会 |
例祭日 |
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神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】thonglor17
【
最終
更新日時】2023/10/01 09:21:12
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