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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 | 広島県大竹市玖波五丁目1034番地 |
五畿八道 令制国 |
山陽道 安芸 |
アクセス | JR山陽本線玖波 徒歩7分 |
御朱印授与時間 | |
電話番号 | 0827-57-7307 |
FAX番号 | 0827-57-3003 |
公式サイトURL | https://kimmygimmyyammy.wixsite.com/kuba |
御祭神 | 【主祭神】
大歳神(おおとしのかみ) 【副祭神】 神大市姫(かむおおいちひめ) 金山彦神(かなやまひこのかみ) 猿田彦神(さるたひこのかみ) |
創建・建立 | 不詳 |
旧社格 | 村社 |
由来 | 【頒布-パンフレット】
由緒 創祀年代は詳らかではないが。古くは本殿横に神生石と書いてミアレイシと呼ばれる石があり、古代信仰において山や木や石などを神が宿った存在として崇めており、この神生石も、信仰の対象として崇拝され、後にその横に御神殿を建立したものと推測できる。 天文23年(1554年)毛利元就と陶晴賢による厳島合戦の戦火により、御神体を奉持して、周防国玖珂郡山代生見村の内二箟の山中に逃れ、兵乱の後、弘治2年(1556年)に祝師西村左衛門太夫吉久が御再建する。 この時の本殿はかや葺きであった。 慶長の頃、福島正則が入国した後、当神社の神田三町が没収される。 享保15庚戌(1730)9月17日(10月28日)の夜祭の時提灯より出火し社殿裏よりご神体を仮宮を設け遷宮し18日の御祭礼を19日に執行した。 この時、御幣が光と共に玖珂郡山代生見村に飛んでゆき返してもらうために、新しい御幣を奉納し、交換してもらったと伝えられる。 その後、享保17壬子(1732)西村河内守須久が本殿を御再建し、元文3戊午(1738)拝殿と廊下を建立した。 本殿 流造桧皮葺き。 間口2間 奥行2間 拝殿 入母屋造瓦葺き。 間口5間 奥行4間 その後、天明(1781~9)の頃、西村美濃守公久が本殿を御再建した。 昭和20(1945)年の枕崎台風などで傷みが甚だしく昭和42(1967)年西村公尚が御再建し現在の社殿となる。 鉄筋コンクリート造。 本殿 神明造銅板葺 間口3㍍60㌢ 奥行2㍍70㌢ 幣殿 間口5㍍40㌢ 奥行3㍍ 拝殿 流れ造向拝付瓦葺 間口12㍍60㌢ 奥行6㍍ 余談ではあるが、玖波の地名の由来ですが、古来、高庭・津葉と言う名で書物にでており、その後、玖波が山陽路の要衝であり、山陰との交通路でもあり又、港町で、ここに木材などの物資が集積していたため木場と呼ばれるようになる。 それがなぜ玖波となったかについて、古老の話しによれば、大歳神社が、玖珂郡山代生見村と深いかかわりを持っており、当時神社の前面が入江で波打ち際であったために、玖珂の玖の字の下に波を付けて玖波となったとのことである。 当社の神官西村氏は、藤原鎌足7代末裔公秀(貞観15(873)年豊後守従五位に任ぜられる)を初代として現在の宮司西村公仁で43代目となる。 |
神社・お寺情報 | |
例祭日 | 10月第2日曜日 例祭(玖波祭) |
神紋・寺紋 | ![]() |
更新情報 | 【
最終
更新者】龍太郎 【 最終 更新日時】2019/12/01 14:59:15 |