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中央神社
埼玉県北葛飾郡杉戸町並塚1063
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みんなの参拝記録
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(ムンクさん)
おすすめ度:
★★★
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 39
参拝日:2024年6月8日 09:03
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(shikigami_hさん)
おすすめ度:
★★★
0
 64
参拝日:2022年6月11日 07:32
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★
0
 106
参拝日:2021年6月26日 07:03
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県北葛飾郡杉戸町並塚1063 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武伊勢崎線東武動物公園 徒歩44分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
若宇迦能賣乃命 |
創建・建立 |
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旧社格 |
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由来 |
境内掲示板
中央神社
祭神 若宇迦能賣乃命
祭儀 一月第三日曜日 六月第三日曜日 十一月二十三日
当社は古くは稲荷社であった。『新編武蔵風土記稿』に「稲荷社二 村持」 とあるうちの一社である。
明治四十年に村内の村社一、無格社七、同境内社十六を合併した。これに合わせ社殿を改築し、中央神社と改称した。 その名は、当所が東西に細長い並塚ほぼ中央に位置することによる。昭和五十六年には当地出身で、当社を深く崇敬した大正製薬株式会社会長上原正吉の浄財により社殿が再建され、荘厳さを加えた。
なお、境内地には「ずらっぽうさま」 と呼ばれ地元で親しまれた延命地蔵堂と、「上原正吉先生顕彰」 の碑がある。
杉戸町教育委員会 |
神社・お寺情報 |
燈籠 天保二年(1831年)
境内碑
上原正吉先生顕彰の碑
上原正吉先生は並塚久野の糸屋の出身である。父善右衛門、母さだの六男一女の末子に生れ、父親は小学校の教師をしていたが、正吉先生が五才のとき母親を失い、六才のとき父親に先立たれたので、長兄長十郎夫妻に育てられ、旧田宮村で小学校を卒え、杉戸町の次兄高島宅から高等小学校三年を終えるまで通学した。高小二年、十四オのとき埼王県小学校准教員の資格試験を受験して全科目に合格し、埼玉県小学校准教員の免許状を授与された。三番目の兄オ助、四番目の兄幸助が東京にいたので、それをたよって上京し、仕事を手伝いながら錦城商業学校三年生に編入して同校を卒業、当時個人経営だった大正製薬所に入所した。大正十五年小枝夫人と結婚、上原先生夫妻の手によって昭和三年株式会社大正製薬所を創立、以来五十有余年の努力によって日本屈指の製薬会社たる大正製薬株式会社を築きあげた。昭和二十五年参議院議員第二回通常選挙で埼玉地方区から立候補して美事に当選し、以来連続五期当選して三十年間にわたって国会議員をつとめ、在職二十五年の永年勤続議員として参議院から表彰を受けた。その間、各種常任委員長、国務大臣、裁判官弹劾裁判所長、自民党两院議員総会長、自民党琦王県連合会会長等数々の要職につき、その功績によって昭和四十三年勲一等瑞宝章、同五十年埼玉県で最初の勲一等旭日大綬章を親授され、受章者を代表して天皇陛下にお礼を言上した。
最初に当選した当時は町村合併前で、北葛飾郡下には百人を収容する集会所もない状態だったので、国会からの歳費を積み立て、それに私財を加えて昭和三十八年杉戸町役場の敷地内に千人収容する上原会館を鹿島建設の施工で建設、椅子、テーブル調度品からピアノに至るまで必要品を悉く揃えて寄附し、杉戸町名誉町民第一号に推された。
中央神社の本殿が老朽化したのでその再建について相談に行ったところ、先生も何とかしたいと考えていたところだから、全部私にやらせてくれ、石の鳥居は氏子一同で建ててくれということで話がきまり、社殿、祭殿等の設備、境内の整備一切を寄進して下さった。地元としては御厚意を有難く御受けした。
上原先生は国会議員の任期を完うし、会社は立派な後継者に譲り、政界、業界から引退され、実家は甥の上原金一氏が継いでいる。ここに本殿再建が成り落成式を迎えるに当って上村先生に深謝しその一端を碑文とした。
昭和五十六年十一月吉日
撰文 濱田恭司
境内掲示板
延命地尊(ずらっぽうさま)
所在地 杉戸町大字並塚一一〇二
昔、この並塚の地には、毎年夏になると悪い疫病がはやり、病にたおれ亡くなる者があとを絶たなかったと言う。村人たちは、一日も早く疫病が治まるよう神仏に祈っていたが、広まる一方で、手の施しようがなかったと言う。
そんなある日、松の杖を突き、墨染めの衣を身につけた「ずらっぽうさま」と呼ばれる老僧がこの地を訪れ、疫病で困りぬいている村のようすを見て、病気で苦しんでいる家を一軒一軒拝んで廻ったと言う。しかし、疫病はいっこうに衰えなかったため、ずらっぽうさまは生きたまま自分の体を仏にささげる「いけにえ」になる覚悟をきめ、七日分の食糧と鐘を持って穴の中へ入り、念仏を唱えた。七日目の晩、地下から響いていた念仏と鐘の音は絶えてしまった。すると今まではやっていた疫病はおさまり、村人は元気になったと言う。
以上が、ずらっぽうさまの伝説であるが、今でもずらっぽうさまの命日である八月二十四日には、供養が行なわれている。
昭和六十一年三月
埼玉県
杉戸町
境内碑
延命地蔵尊の由来及び地蔵堂再建の記
由来
古老からの言い伝えに依れば昔浪塚村をはじめ近郷まで悪疫が流行したとき諸国行脚の旅僧ずらっぽうという者は人達の苦難を憐れみ〇〇○救わんとし自ら墓穴に入り悪疫退散祈願の念仏を唱えつつ成仏しついに悪疫を除いたという村人達はずらっぽうの信仰の篤さにいたく感激し寛政十年延命地蔵尊を刻みここに祀ったものである
この延命地蔵尊が村人達から通称ずらっぽうさまと呼ばれている由縁はこれにあり御縁日にお参りするとその年は悪疫にかからないと言われている
供養の日
毎年八月二十四日をご縁日としているこの日老人達はお堂の内外を清掃し持ち寄ったおにぎりあられ野菜の煮物などを供えお堂の前に筵を敷き大きな数珠〇回し念仏を唱えて供養をし御供物を戴きながら歓談する
地蔵堂創建
延命地蔵尊に寛政十年を刻まれていることからこの時安置するため建立されたものと思われる
再建
お堂が長年の風雨により腐朽し自然崩壊のおそれが出てきたため復旧することとし広く浄財を募ったところ多大の寄進があり特に郷土出身の参議院議員大正製薬株式会社会長上原正吉先生の格別の寄進とによってこれまで共同墓地の中に建坪一坪半ほどで在ったものを五坪に拡張しもとの場所より西側に移して再建したものである
昭和五十五年八月吉日
棟梁行田市堂宮彫刻師 高橋幹治
撰文 濱田泰司 |
例祭日 |
一月第三日曜日 六月第三日曜日 十一月二十三日 |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2024/06/09 08:33:57
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