2.5
香取神社(大沼)
(かとりじんじゃ)
埼玉県春日部市大沼7丁目70
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みんなの参拝記録
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(ムンクさん)
おすすめ度:
★★
0
![](../images/access.png) 15
参拝日:2023年10月7日 09:38
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(thonglor17さん)
おすすめ度:
★★★
0
![](../images/access.png) 59
参拝日:2022年1月9日 07:24
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(ロビンさん)
おすすめ度:
0
![](../images/access.png) 75
参拝日:2021年8月12日 10:59
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基本情報
※地図上の表示位置はGoogleの位置情報を利用しているため、微妙に異なる場合があります。地図の表示位置は「情報編集」ボタンから修正できます。
住所 |
埼玉県春日部市大沼7丁目70 |
五畿八道 令制国 |
東海道 武蔵 |
アクセス |
東武野田線八木崎 徒歩22分 |
御朱印授与時間 |
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電話番号 |
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FAX番号 |
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公式サイトURL |
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御祭神 |
経津主神 |
創建・建立 |
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旧社格 |
旧村社 |
由来 |
境内掲示板
香取神社 御由緒
春日部市大沼七‐七〇
□御縁起(歴史)
谷原新田は、代々名主を務めてきた中村太左衛門家の先祖の多左衛門によって開発された新田である。『風土記稿』東谷原新田の項の記事によれば、多左衛門は元は工匠を生業としていたが、寛文九年(一六六九)の日光東照宮の修営に携わって得た金を元に開発を行ったといい、元禄期(一六八八‐一七〇四)以降に東西二村に分かれたことが記されている。
当社は、その東谷原新田の鎮守として祀られてきた社で、『風土記稿』東谷原新田の項に「香取社 村の鎮守、浄法庵の持」と載る。この浄法庵は当社の真北に隣接する村の共同墓地にある堂のことで、延宝六年(一六七八)の造立であるという。したがって、当社が創建されたのも、それとほぼ同じころのことと思われる。神仏分離の後、浄法庵の管理を離れた当社は明治六年に村社になり、廃寺となった浄法庵は村の集会所に転用され、現在に至っている。
明治七年、東谷原新田は西谷原新田と合併し、谷原新田となった。西谷原新田では八幡社を鎮守としてきたが、この合併に際し、両村の鎮守を統合することはなかった。それは、開発以来、村の鎮守として信仰し続けた神社に対する氏子の敬神の念を反映したものであろう。関東大震災では幣殿・拝殿が全壊したが、大正十五年四月には再建が果たせたのも、こうした氏子の信仰の厚さによるものといえよう。 |
神社・お寺情報 |
青面金剛 享保七壬寅歳十一月(1722) 文化八未年二月(1811)
水盤 天保十一庚子年三月(1840)
境内碑
鎮守香取神社並びに浄法庵改装記念
谷原新田の草創より現代までの概史
谷原新田は春日部市の南西に位置し面積は、一九二ヘクタールであった。
昭和四十一年(一九六六年)より、春日部市の発展にともない、駅西口の区割整理が行われ住居表示が中央、谷原、大沼、豊町、谷原新田と改められた。春日部市の起源は古く約二千年前に遡ぼり、大沼四丁目の郵政省グランド造成のとき、その地下より弥生時代の完形土器が発見されて谷原新田遺跡として有名である。一三〇〇年頃、鎌倉時代末期に岩井氏一族が、当時、利根川の本流であった古利根川の乱流によって生じた、微高地に移住して開発したのがヲモレ耕地である、現在の新方領に所属する地域は、鎌倉時代は下総国葛飾郡下河辺庄下方と呼び、鎌倉時代末期より、一四五〇年頃の室町時代にかけては、更に拓けて新方庄と成った、下総国に属した関係から産土神は下総の香取神宮を、この地域の村々に分祠して今日に至っている。鎌倉時代より古利根川と元荒川の度重なる河川流路の変遷によって新方庄は両河の輪中の湛水場となって、谷原新田の大半は大場谷原沼と称されて、江戸時代の初期まで粕壁宿、一の割、中村、大場、大畑、大枝、平方、備後、大泊の一町八ヶ村の入会の草刈場として九二ヘクタールがあり、他の一〇〇ヘクタールは沼地であったが、一六六一年の寛文初年に、徳川幕府の新田開発により、町人請の開発が認められ、一丁割、西組の地を中村多佐衛門重政、廿十四丁、大塚、三郎谷、六丁物、を高田三郎君美、東組分を神田治佐衛門義將などの縁者によって開田され、寛文九年(一六六九年)に谷原村が成立し、同年村の中央部に鎮守香取神社が勧請された。十年後の延宝六年に村の共同墓地に粕壁宿、最勝院の門徒寺として浄法庵が開基され、元禄八年(一六九五年)に幕府の検地が行われて谷原村は幕府の直轄領となり、二年後に武蔵国の総検地があり、この年に三郎谷組、六丁物組、大沼組、中組、ヲモレ組は東谷原村となり、廿十四丁組、大塚組、一丁割組、仲通り組、下耕地組は西谷原村に分離して二ヶ村と成った。この頃より東谷原村の神田、岩井系の大半は越谷市大松の浄土宗栄廣山浄土寺清浄院檀徒となった。三郎谷の開発者高田三郎はこの年に年貢の収納が出来ず谷原村を去ったが、この高田氏の遺徳を偲び、三郎谷に開村一六四年後の天保四年に村民は稲荷神社を勧請し、顕彰碑を建立した。宝永二年(一七〇五年)より、谷原村は岩槻城付の領地となり幕末に至った。明治二十二年の市町村制施行によって、豊春村大字谷原新田と改まり、市町村合併促進法によって、昭和廿九年七月一日に春日部市大字谷原新田となった。ここに開村三三〇年を期し、現在の氏子によって鎮守香取神社の屋根を銅板葺きに新装した。また清浄院と最勝院の檀徒により浄法庵を改装増築を成し、ここに谷原新田の草創より今日までの概略を碑に刻して後世に伝える。
一九九六年 平成八年三月吉日 建立
静山
文 岩井 茂
撰 神田司郎 |
例祭日 |
・御歩射(二月十一日) ・夏祈祷(七月十四日) |
神紋・寺紋 |
未登録
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更新情報 |
【
最終
更新者】ムンク
【
最終
更新日時】2023/10/07 17:56:27
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